398: 2014/02/23(日) 22:42:38 ID:9D.mZxhQ


【SS】こんな日が続けばいいのに【1】
【SS】こんな日が続けばいいのに【2】
【SS】こんな日が続けばいいのに【3】
【SS】こんな日が続けばいいのに【4】

◇04-01[Nightmare]


 ノックの音で、目をさました。
 遠慮がちでそっけないノックの音。何度も何度も、繰り返し聞いた。
 
 俺の体はその音を覚えている。その音を聞いたら、起きなきゃいけない。
 ちゃんと分かってる。

「お兄ちゃん、朝だよ。起きてる?」

 起きてる。俺は頭の中で答える。そして、目を開く。身体を起こす。
 
 扉が軋みながら開く。妹は少し驚いた顔になる。

「起きてたの?」

「……いや、今起きた」
 
 眠気はほとんどない。自然に目がさめた。

 体を起こしてすぐ、俺は部屋の状態をぼんやりと眺めた。
 床に散らばった衣服、乱雑に積み上げられた本やDVD……。
 溜め息が出るような無秩序な景色。いつもの通り。
三ツ星カラーズ8 (電撃コミックスNEXT)
399: 2014/02/23(日) 22:43:29 ID:9D.mZxhQ

「どうしたの?」

「……変な夢を見た」

「どんな夢?」

「夏祭りに行く夢」

「……夏祭り、まだだよ?」

「うん。分かってる」

 ちゃんと分かっている。夢は夢だ。
 夏休みはまだ始まっていない。俺はちゃんと状況を理解してる。
 
 夢の内容は、もう思い出せない。それなのに、なぜだろう?
 夢が夢だったことが、すごく悲しい。

400: 2014/02/23(日) 22:44:10 ID:9D.mZxhQ



「疲れてるんだよ」

 と、トーストにいちごジャムを塗りながら妹は言った。

「そうかな」

「うん。お兄ちゃん、最近様子が変だったもん」

「……そうだっけ?」

「うん。なんか、ぐだってしてた」

「……それ、どんな感じ?」

「だから、ぐだって感じ」

 さっぱり分からなかった。妹はジャムを塗り終えたトーストにかじりつく。
 どうでもいいけど、いちごジャムっていうのは見ていて気持ちのいい色合いをしている。

「なにかあったのかなってちょっと心配していた」

「それは、悪かったな」

401: 2014/02/23(日) 22:45:22 ID:9D.mZxhQ

「なにかあったの?」

「……」

 あったのか? よく、思い出せない。夢の印象が深すぎるせいだろうか。
 まだ、寝惚けているような気がする。ここ最近、どんなことをしていたか、よく思い出せない。

「なにもなかった、と思う」

 俺は自分の分のトーストにジャムを塗った。
 テレビの中で、気象予報士が今週の気温について何かを言っていた。
 
 言葉は聞こえているのに、具体的なイメージができない。
 現実の印象が、思考に引っ張られて曖昧になっていく。
 
 しばらく黙り込んだ後、妹は、「そっか」と、どこか寂しそうに呟いた。
 なにか、悪いことをしているような気分になる。

 結局、その後は会話らしい会話もないまま、二人で家を出た。

402: 2014/02/23(日) 22:46:47 ID:9D.mZxhQ



 教室につくと、タイタンが俺の机で眠っていた。

 彼が学校で眠っている姿なんて、初めて見た。
 なんとなく感心してしまう。
 なぜ俺の机で、という疑問はあるけれど。

「タイタン?」

 声を掛けると、彼は軽く身じろぎして瞼を閉じたまま顔をしかめた。
 ずいぶんと眠そうに見える。

「寝不足?」

 彼は身体を机から離し、あくびを噛み頃すと、大きく伸びをした。
 それから深く溜め息をつき、手のひらで頬を揉み解しはじめる。

「そういうわけじゃないはずなんだけどな」

 それでもたしかに眠そうだった。

403: 2014/02/23(日) 22:47:49 ID:9D.mZxhQ

「疲れてるの?」

「かもしれない。休みが近付いて、緊張感がなくなってるのかもな」

「ふうん」

 だとすると、俺には万年緊張感が足りていないのかもしれない。
 
 タイタンは、何か気がかりなことがあるみたいに眉を寄せた。
 元々顔立ちが整ってるせいもあって、こうしていると思慮深い学者みたいに見える。

「どうして俺の机で寝てたんだ?」

「ああ、うん。……学校で眠るって、どんな気分だろうなって思ったんだよ」

「珍しいね」

「何が?」

「前に言ってたじゃん。眠ってると、損してるような気がするって」

「……そんなこと言ったっけ」

「言ってた」

404: 2014/02/23(日) 22:48:25 ID:9D.mZxhQ

 彼は深く溜め息をつくと、椅子の背もたれに体重を預けて窓の外を睨んだ。
 やけに絵になる。

「夢を見たよ」

「どんな?」

「幸せなやつ」

「ふうん」

 意外な話だ。

「見なきゃよかった」

「……どうして?」

「嫌になってくる。ヒメは、平気なのか?」

「平気じゃないよ」、と俺は言った。

「目がさめたあと、いつもさめざめと泣くんだ」

 タイタンは少し笑った。

405: 2014/02/23(日) 22:49:45 ID:9D.mZxhQ

「夢を見たり、本を読んだりすると、決まってこんな気分になるんだよ、俺は。だから避けてるんだな、きっと」

 彼と俺は真逆な性格をしているんだな、とこのとき俺は納得した。

「でも、夢を見ないでいることはできない」

 タイタンは再び溜め息をつく。窓の外は気持ちのいい快晴だった。
 太陽は暑苦しい熱気をまき散らして、俺たちの体力を奪っていく。
 じわじわと。毒みたいに。

「それでも俺たちは現実に生きていかないとな」

 珍しく抽象的なことを言って、それでもタイタンは憂鬱そうな顔をしていた。
 彼はどんな夢を見るんだろう。妙にそのことが気になった。

 タイタンが俺の席に座りっぱなしだったせいで、俺は机の脇にずっと立っていた。
 当然、通路をふさぐような形。

406: 2014/02/23(日) 22:51:11 ID:9D.mZxhQ

「えっと」、と声が掛けられた。すぐ後ろから。

「ごめん、通ってもいい?」

「あ、うん」

 女子の声。俺が邪魔にならないように避けると、彼女は「ありがとう」と言って脇をすり抜けて行った。
 通り過ぎてから、彼女は少しだけ俺の方を振り向いた。

 どこか不思議そうな顔。

「なに?」

 訊ねると、彼女は不思議そうに「え?」と首を傾げた。

「いや、見てたから」

「……あ、うん。ごめん」

 自分でもなぜそうしていたのか分からない、というような不思議そうな顔。
 あんまり話したことはない子。いつも飴をくわえている、よく笑う子。

 彼女はすぐに俺たちから離れていったけれど、なぜか、ちらちらとこちらを見ていた。

407: 2014/02/23(日) 22:52:05 ID:9D.mZxhQ

「ヒメ、あの子に何かしたのか?」

「まさか」

「本当に?」

「俺がどんなことをするっていうんだよ」

「おまえの場合、自分のやっている行動に自覚がないことがあるからな」

「なんだか、その言い方だと心配になるな。自分が無自覚にいやなことばかりしてるみたいで」

「おまえはいつも現実から意識を切り離しすぎてるんだよ」

408: 2014/02/23(日) 22:53:18 ID:9D.mZxhQ

 まあ、そうかもしれない。

「おまえから見れば、たいしたことじゃないように思えることも、人からしたらすごく重要なことだったりするんだ。
 些細なことで傷ついたり、浮かれたりするんだ。もうちょっと、自覚的に振る舞えよ」

 彼は、どこか苛立っているように見えた。
 俺じゃなくて、他の誰かの話をしているみたいに聞こえる。

 本当に、いやな夢だったのかもしれない。
 少し黙り込んでいると、タイタンは急に後ろめたくなったみたいに首を横に振った。

「……すまん。今のは八つ当たりだった」

 べつに気にしたわけでもなかったけど、頷く。そこでチャイムが鳴った。
 日々は忙しない。

409: 2014/02/23(日) 22:54:24 ID:9D.mZxhQ



 なんとなくぼんやりとしたまま授業を終え、放課後を迎えた。
 クラスメイトたちは部活に行くのか、他に用事でもあるのか、すぐに散らばってしまった。

 俺は窓際の自分の席に腰かけたまま、ぼんやりと空を眺めた。まだ明るい空。

「部活には出ないのか?」

 タイタンはそう訊ねてきた。俺は小さく頷く。返事をするのも億劫なほど気怠い気分だった。
 何が原因なのかはわからない。 

 とにかく部活には出たくなかった。何か嫌なことを思い出しそうだった。
 それがなんなのかは分からない。でも、部活に出れば、きっといつも通りの景色が広がっているんだろう。
 その事実は俺を少なからず傷つける。そんな予感があった。

 タイタンは短く溜め息をつくと「それじゃあ」と言って教室を出ようとした。
 たぶん部活に出るんだろう。彼には出ない理由がない。
 
 彼がいなくなると、教室に残っていた数人のクラスメイトたちも荷物をまとめはじめた。 
 俺がもう一度窓の外に視線を戻そうとしたとき、

「おい、ヒメ」

 と、教室の入り口から今出て行ったばかりのタイタンが声を掛けてきた。

410: 2014/02/23(日) 22:55:01 ID:9D.mZxhQ

「なに?」

「待ってるみたいだ」

「誰が?」

 タイタンはまた溜め息をついた。それから廊下の方を小さく指し示すと、すたすたと去っていく。
 怪訝に思いながらも、俺は鞄を持って立ち上がった。

「あ……」

 廊下に出ると同時に、そんな声が聞こえた。
 思わず声の主を見遣ると、彼女の方もこちらを見ている。俺は眉をひそめる。

 俺はその子を知っている。

「……ヒナ?」
 
「……」

 名前を呼ぶと、彼女はさっと目を逸らして、あちこちに視線を巡らせた。

411: 2014/02/23(日) 22:56:52 ID:9D.mZxhQ

 俺は彼女のことを知っている。
 四月に屋上で出会った。六月に屋上で告白された。それから付き合うようになった。
 ちゃんと分かってる。そういう記憶があるのだ。

「なんで廊下で待ってたの?」

「べつに、待ってたわけじゃ……」

「……」

「……なんとなく、入りづらくて」

「いいかげん慣れなよ」

 慣れるべきだ。
 こんなやりとりだって、もう一ヵ月以上続けているんだから。
 それなのに彼女は、いつも一歩引いたような、気恥ずかしそうな態度で俺に接する。

 関係が変わる前の方が、よっぽど距離が近かった。
 
 それだって、別段不愉快なわけじゃない。むしろ心地よくすらあるのだけど。

412: 2014/02/23(日) 22:57:45 ID:9D.mZxhQ

 一ヵ月。短くない時間だ。
 ヒナはこの学校に入学するのと同時にこの街に引っ越してきた。
 だから、俺と彼女の家は意外なほど近くにある。

 そのことに気付いた俺たちは、関係が変わってからというもの毎日のように一緒に登下校していた。
 そういうことをちゃんとしておかないと、関係が変わったということをうまく自分に溶け込ませることができなかった。

 下の名前で呼ぶようにしたのだってそうしたやりとりの一環だ。

 週末には映画を観に行ったり、買い物に行ったりもした。
 放課後に教室で一緒に勉強をすることだってあった(俺が教える側だったけど)。

 ヒナが俺の部屋を見てみたいというので、招いて一緒に映画を観たこともあった。
 我ながらレパートリーの少ない人間だと思うが、そのあたりは街に責任がある。

 観た映画は「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」だった。
 その日は夕方頃に通り雨が降り始めて、帰るタイミングを逸したヒナを、俺は家まで送った。
 
 ちゃんと覚えてる。そういう記憶がある。

413: 2014/02/23(日) 22:58:39 ID:9D.mZxhQ

「帰ろうか」

 そう声を掛けると、ヒナは頷いて、どことなくこわばった面持ちでとことこと歩み寄ってくる。
 そういう態度をとられると、こっちもなんとなく緊張してしまって、心臓の鼓動が妙に速くなる。

 当たり前のように、彼女は俺の隣を歩く。
 歩きながら、ヒナはちょっと困ったような顔で訊ねてくる。

「部活、出なくていいの?」

「ああ、うん」

「最近、ずっと出てないよね」

「べつに部活に出ないからって氏ぬわけじゃない」

「……そうだけど」

 べつに不真面目であることを咎めたいわけではないんだろう。
 ヒナは帰宅部だから、俺がそれに合わせて休んでいるんだと感じているのかもしれない。

 実際それだって、ないわけじゃない。でも、それだけが理由なら、俺はちゃんと部活に顔を出す。
 ヒナが気にするって分かってるんだから。

414: 2014/02/23(日) 22:59:29 ID:9D.mZxhQ

 ふと思い出して、俺は自分の鞄をぽんぽんと叩いてみた。
 想像した通り、いつもよりちょっと堅い。

「……なにやってるの?」

 ヒナは奇妙なものを見るような目で俺を見ていた。

「本。図書室に返しに行かなきゃ」

「そっか。じゃ、寄っていかなきゃね」

 俺たちは当然のように並んで図書室に向かった。
 
 司書さんは本の整理をしている。俺が声を掛けると、彼女はちょっと笑った。

「また彼女さんと一緒?」

「ですね」

 と俺は事実を認めた。

415: 2014/02/23(日) 23:00:11 ID:9D.mZxhQ

「そっか。いいねえ、青春って」

"青春"という言葉を口に出した途端、彼女の年齢が十くらい上がったような感じがした。
 過ぎ去ってしまったものを遠くから眺めるたびに、人は老いていく。

「本当に?」

 と俺は試しに訊ねてみた。べつに深い意味があったわけでもないのに、司書さんの表情は凍りつく。
 一瞬の沈黙の後、彼女は気まずそうに笑った。今までに見たことがないくらい寂しげな笑い方だった。

 彼女は何も言わないまま、手に持っていた本を近くの机の上に置くと、カウンターの中へと向かった。
 それからいつものように笑って、俺を手招きする。

「返却に来たんでしょ?」

「はい」

 と俺は仕方なく頷いた。べつに何かを訊きたかったわけでもないし、何かを言いたかったわけでもない。
"青春"とか、"思春期"とか、そういう安い言葉で十把一絡げにして。
 言葉以上の何かがそこにあったことを思い出そうともしない。

 そういう、「他人事めいた印象」を押し付けられるのが、なんとなく腹立たしかっただけだ。

416: 2014/02/23(日) 23:01:15 ID:9D.mZxhQ



 本を返して図書室から出ると、ヒナはなんだか心配そうな顔でこちらを見ていた。

「なに?」

 と訊ねると、首を横に振って、なんでもない、と小さく呟く。
 
「ヒメはさ」

 ヒナはもともと、俺のことを「あんた」なんてぶっきらぼうに呼んでいたんだけど。
 付き合い始めてから、急に引っ込み思案になったというか、そういう態度がなりをひそめたというか。
 なんとなく、物静かで、遠慮がちで、こちらの態度をうかがうような、そんなふうになった。

 名前で呼んだら、と提案したけど、彼女は恥ずかしがったのか、結局あだ名に落ち着いた。
 どこでそのあだ名を知ったのか、俺には分からないんだけど。

「人に、意地悪をするよね」

「そう?」

「うん」

「そんなつもりは、ないんだけどね」

417: 2014/02/23(日) 23:02:00 ID:9D.mZxhQ

 ヒナは、べつに責めるわけでも咎めるわけでもないような、自然な口調だった。
 だから俺も、べつに怒ったり反論したりする気にもなれない。

「ヒメの意地悪は、反撃みたいな感じがする」

「……反撃?」

「うん」

 彼女のたとえはよく分からなかった。
 
「前からずっと気になってたんだけど……」

「……なに?」

「ヒメはいつも、何気ないことで、必要以上に傷ついている気がする」
 
 ヒナの言葉の意味が、よくつかめなくて、うまく答えられなかった。

 俺はそこで話を区切って、そろそろ帰ろう、とヒナに言った。
 ヒナは俺の目を数秒間じっと見つめたあと、静かに頷いた。

418: 2014/02/23(日) 23:02:33 ID:9D.mZxhQ



 昇降口から外に出た途端、アスファルトがじりじりとした熱気を伝えてくる。
 すぐに汗が止まらなくなる。俺はなんだか居たたまれなくなった。

「暑いね」

 ヒナが不思議なほど涼しげな顔でそういうものだから、俺は反応に困った。
 
「そうは見えないけど」

「そうは見えないだけだから」

「……なるほど」

 そう言われてしまうと、それ以上は何も言いようがない。
 太陽の光は痛いほど眩しい。きらきらとしていて目を潰す。
 有害なほど。

419: 2014/02/23(日) 23:03:29 ID:9D.mZxhQ

「もうすぐ夏休みだね」

 校門を出てすぐ、ヒナはそう口を開いた。
 頷きだけを返すと、彼女はまだ何か言いたげに、ちらちらとこちらを見る。
 俺は黙って続きを待つ。

「……夏休みも、会えるよね?」

 もちろん、と答えようとしたのに。
 なぜか一瞬、言葉に詰まった。

 ごまかすみたいに、俺は笑った。
 ヒナはそれを肯定の態度だと思ったのだろう、ほっとしたように息を漏らす。
 
 蝉の声。
 なぜか気分が落ち着かない。

 途中でコンビニに寄って、アイスとジュースをそれぞれ買う。

420: 2014/02/23(日) 23:04:35 ID:9D.mZxhQ

 風除室のガラスに貼られたポスターを、ヒナはじっと見つめていた。
 夏祭りの日程の書かれたポスター。

「行こう」
 
 と俺が声を掛けると、ヒナは小さく頷いた。
 俺たちはバス停へと歩き出した。

 停留所でバスを待つ間、隣り合ってベンチに座る。

 俺たちは言葉も交わさずにいた。外の熱気で話す気力がなかった、というわけじゃない。
 会話がなくても自然な関係になった、というわけでもない。

 何かがおかしかった。

「ヒナ」

 名前を呼ぶと、彼女は小さく首をかしげた。

「俺たちさ、付き合ってる、んだよな?」

 彼女は一瞬、きょとんとした顔になる。感情は読み取れない。
 見慣れているはずの表情。

421: 2014/02/23(日) 23:05:32 ID:9D.mZxhQ

 少ししてから、彼女は頷く。
 俺はほっとする。"俺の認識は事実に背いてはいない"、と感じる。

「何か、不安?」

 ちょっとした言葉のやりとりから、彼女はすぐに俺の心境を察してしまう。
 言葉にされた途端、俺の不安は形をはっきりとさせた。

 彼女はふと、俺の手を握った。そうされてから初めて気付く。
 俺の手は震えていた。

「どうしたの?」

 ヒナは、戸惑ったように、俺の顔を覗き込んでくる。俺はヒナの手に握られた自分の手を見つめた。
 俺は答えられなかった。何かがたまらなく不安だった。
 足元の影から、何かが這い出してきそうな予感。

「何を、考えてるの?」

 彼女は、真剣に、俺と向かい合おうとする。俺の手が震える理由を、確かめようとする。

422: 2014/02/23(日) 23:08:10 ID:9D.mZxhQ

「わたしのこと?」

 違う、と俺は首を振った。声が上手く出せない。

「友達のこと?」

 違う、と俺はまた首を横に振る。

「部活のこと?」

 俺は首を振って否定する。

「……ご両親のこと?」

 息が詰まるような感覚。
 俺は否定する。

「大丈夫だよ」とヒナは言った。

「そんなに自分を責めること、ないと思うよ。誰かのせいじゃない。
 どうすることもできないことって、たくさんあるんだと思う。ヒメは少し、思いつめすぎてるんだよ」

 それ以上、彼女は何も言わなかった。こちらを慮るような、窺うような沈黙。
 彼女は俺のことを考えて、俺のために何かを言おうとしている。

423: 2014/02/23(日) 23:12:33 ID:9D.mZxhQ

 ヒナの右手が、俺の左手を柔らかく包んでいる。
 それは心地よい感触だった。震えは、少しずつ収まっていく。

「ごめん、ヒナ」

 声はわずかに震えていた。でも、本当にわずかに、だった。自分ではそう感じた。

「……面倒な奴だ。俺は」

 こんなことを、わざわざ口に出すほどに。
 ヒナの瞳は、じっと俺の顔を見上げていた。少し怖いほどまっすぐ。

 そして、彼女は笑った。

「いいよ。こんな人だって考えたこともなかったけど、べつに嫌じゃないから。
 ヒメは、もっと正直に、泣いたり笑ったりしていいんだと思う。誰かを、好きになってもいいんだと思う。
 誰もそのことを否定したりしない。もし誰かが否定したとしても、わたしは否定しない」

424: 2014/02/23(日) 23:13:48 ID:9D.mZxhQ

 手のひらの震えは、もうおさまっていた。

「ありがとう」

 やっとの思いで吐き出した声も、もう震えていなかった。
 ヒナは何も言わずに頷いてくれた。

 彼女と一緒にいるのは居心地がよくて、すごく心が落ち着く。
 安心できる。心細さが消えてしまう。胸の内側が強く締め付けられる。

 彼女の言葉、彼女の態度、彼女の表情が、俺を安堵させる。
 
 そして、その安堵を自覚するたびに、俺は不可解な恐怖を抱く。
 
 だって、まるで嘘みたいだから。

425: 2014/02/23(日) 23:14:54 ID:9D.mZxhQ



「夏休み中も、部活はあるんでしょ?」

 少ししてから、話題を変えようとしたのか、彼女はそんなことを言った。

「たぶんね」

「どのくらい?」

「そんなに多くはないと思う」
 
 べつに運動部や吹奏楽のように練習があるわけでもないから、出なくても怒られることはないだろう。
 
「文芸部って、どんなことをするの?」

「文芸をするんだよ」

「文芸ってなに?」

「思想や感情を、言語によって表現すること」

「本当にそう思ってる?」

 俺は答えなかった。ヒナは呆れたみたいに溜め息をついて、また笑う。

「ヒメはさ、何か書いたことがあるの?」

「……」

426: 2014/02/23(日) 23:16:20 ID:9D.mZxhQ

「答えたくないなら、べつにいいけど」

「……一応、あるにはある」

「何を書いたの?」

 俺は少し躊躇したけれど、結局答えた。

「まあ、一応小説、だと思う。たぶん」

「……どんなの?」

「変なの」

「……ジャンルは?」

「分からない」

「どういうこと?」

「特に考えたことがなかった」

 ヒナは、よくわからない、というように首を傾げた。それから気を取り直すように質問を重ねた。

「どんな話だったの?」

427: 2014/02/23(日) 23:17:11 ID:9D.mZxhQ

「箱の話だった」

「……箱?」

「うん。箱」

「箱の、どんな話?」

「箱についての話」

「……どんな箱なの?」

 まるでカウンセリングみたいだな、と俺は思った。
 ヒナは我慢強い。

「高さ・幅・奥行がそれぞれ三メートルの正立方体だよ」

「大きいね」

「うん。大きい。天井が高めで少し広い部屋や物置みたいな感じ。
 でも、扉もなければ窓もない。窓は必要ないんだ。透明な、ガラスみたいな素材でできてるから。
 本当にガラスなのかどうかは分からない。透明で、硬質で、触るとひんやりしてる。
 ガラスみたいに見えるけど、本当にガラスなのかは確かめられないし、ガラスだと分かったところでどうしようもない」

「……その箱が、どうしたの?」

428: 2014/02/23(日) 23:19:01 ID:9D.mZxhQ

「たくさん並んでる。とても広い場所に。たぶん、どこかの荒野か何かだ。 
 あまりにも多すぎて、正確な数は分からないけど、少なくとも百や二百ではきかないだろう。
 とにかく、透明な、大きな箱が、たくさん並んでいる」

「……うん」

 それで? と彼女は続きを促した。

「箱の中身はそれぞれに異なる。いろんな物が、箱ごとに無作為に詰め込まれている。
 共通して入っているのはふたつ。箱ひとつにつき一人の人間と、ひとつにつき一つのナイフ。
 ナイフは刃渡り八センチくらいの素っ気ないデザイン。
 人間は老若男女さまざまで、子供もいれば老人もいた。それ以外には、箱の中身に共通点はない」

「……ねえ、それ、小説?」

「たぶん。確認したことはないけど。でも、べつに小説じゃないとしたってかまわない」

「どうして、人々は箱の中にいるの?」

「さあ?」
 
 と俺が真剣に答えると、ヒナは困ったような顔をする。

429: 2014/02/23(日) 23:20:03 ID:9D.mZxhQ

「箱にはドアがないから、出ることはできない。箱の中には食糧だってない。
 でも、箱の中の人々は食事を必要としない。同様に、睡眠も排泄も必要としない。
 だから本当のところ、彼らを人間と呼んでいいのかどうかすら、怪しいものだ」

「……ヒメが、書いたんだよね?」

「そうだよ。箱の壁は透明だから、人々は隣り合った箱の中にいる人の姿を確認することができた。
 でも、ほとんど誰も、隣の箱に入っている人間に興味を示さなかった」

「……どうして?」

「意味がないから。箱の壁は分厚くて、隣の箱にも音なんて粒ほども届けてくれない。
 話をすることもできないし、物を渡しあったりすることもできない。
 だから、隣の箱にいる人間が、絵の中の景色みたいに見えるんだ」

 ヒナは黙って俺の顔を見つめた。俺はかまわずに言葉を続けた。

「ある女の子がいた。彼女の箱はぬいぐるみと化粧道具と綺麗なドレスで埋まっていた。 
 彼女の箱ほど、物に溢れた箱はなかったから、周りの箱の人々は、一度は彼女の姿を見た。
 人々は一度、たくさんのものの中ではしゃぐ彼女の姿を見たんだ」

「……」

430: 2014/02/23(日) 23:21:06 ID:9D.mZxhQ

「でも、誰かがもう一度視線を向けたときには、女の子は氏んでいた。たぶん窒息したんだろう。
 誰も、いつ彼女が氏んだのか、分からなかった。たぶんずっと気付かない奴だっていた。
 当たり前だけど、誰も彼女の氏を悲しまなかったし、誰も助けようとはしなかった。
 とにかくその子は、いつのまにか氏んでいた。そのくらいみんな、他の箱に興味を持っていなかったんだ」

「……よく分からない」

「うん。結局、分厚い壁っていうのはそういうものなんだよ。何も通さないんだ。
 そうなると誰も、何かを壁越しに伝えようという気にならなくなる。
 だから、そこに誰かがいるって知っていたところで、仕方がない」

「そうしてみんな、壁の向こうに興味を持たなくなっていくの?」

「扉だってない。音すら届かないんじゃ、どうしようもない。
 偶然、箱の中に金槌を見つけた男もいた。男は何日も金槌で壁を叩き続けたけど、壁は壊れなかった。
 物理的に破壊することはきっと困難だったんだろうね。でも、中にはどうしてか壁を壊せる奴もいた」

「……どうやって?」

「さあ? とにかく、壊せたんだろう。並んだ箱の真上を、男女二人組が、駆け抜けていくことがある。
 すごく疲弊していているんだ。どのあたりから走ってきて、どのあたりまで走っていくのか、分からない。
 箱の天井から脱出したことは、たしかなんだろうね。
 でも、箱は彼らの足元に延々と続いていて、どれだけ走ったところで箱の海から抜け出せない」

「……」

431: 2014/02/23(日) 23:22:36 ID:9D.mZxhQ

「天井も壁と同じ素材で出来ているから、二人が箱の上を走っていたことに気付く奴は少なかった。
 気付いた奴は驚いて、どうにか箱から出る手段を探そうとしたけど、結局諦めて、すぐに忘れてしまった」

「……そのふたりは、どうやって箱から出たんだろう?」

「さあね」

 できれば俺が教えてほしいくらいだ。

「それだけたくさん箱が並んでると、奇妙なこともあるものなんだ。
 ある箱に入っている女は、四方の壁の一つだけが、ガラスではなくて鏡になっていることに気付く。
 そこには自分と同じ服、自分と同じ背格好の女が映っていた。
 箱の中身も、物の位置も、同じなんだ。でも、もちろんそれは鏡じゃなかった。やっぱり箱なんだ」

「……?」

「偶然にも、鏡に映ったように物の配置が同じで、背格好の似た女の箱が並んだんだ。
 違ったのは、ふたりの容姿。それも、顔だけだった。
 片方は目を瞠るような美人だけど、もう片方は唖然とするほどの不細工だった」

 ヒナは少しびくびくしながら、話の続きを聞いていた。

432: 2014/02/23(日) 23:23:34 ID:9D.mZxhQ

「片方は、最初に鏡に気付いたとき、自分の醜さに溜め息をついた。もう片方は美しさに溜め息をついた。
 彼女たちの仕草は、一挙一動まで、全部が全部重なった。偶然にも。
 鏡みたいな配置になっていることは珍しくなかったけど、彼女たちみたいに行動がすべて重なるケースは珍しかった。
 だから彼女たちは、それが自分の姿ではなく他人の姿だと気付けなかった。他に確認する手段がなかったんだ」

「……それ、どうなるの?」

「美しい方は、こんなに醜いのでは、仮に箱から出られたとしても仕方ない、と泣いた。
 醜い方は、こんなに美しいのに箱から出られないなんて、と嘆いた。
 そして、箱の中にあったナイフを首筋に当てて、自らの肌に突き刺した。
 でも、最後の瞬間、彼女たちは、自分の鏡像が、自分とは違う動きをするのを見る。そして血を流して氏ぬ」

 ヒナは何も言わなかった。
 話をやめるべきかもしれない、と俺はようやく思い至った。
 続けるかどうかためらっていると、彼女は「それから?」と促してきた。

 俺は、続ける気にはなれなかった。

433: 2014/02/23(日) 23:25:16 ID:9D.mZxhQ

「つまらないだろう?」

「いいから、最後まで聞きたい」

 俺は溜め息をついた。バスはまだやってこない。

「物語の中で、俺も箱の中にいる。この俺、というのは、語り手としての「俺」だけど。
 俺は、少女の氏、金槌の男、天井の男女、鏡面の女たち、そのすべての姿を見ていた。
 俺の箱はからっぽで、何もない。俺は部屋の壁にもたれて、ただじっとナイフを見つめる。
 それから、ふと、自分が決してこの箱から出られないだろうと悟る」

「……それで?」

「それで、俺は……」

「……」

「氏ぬ。ナイフで自分の首を掻っ切って」

「それで?」

「……そこで終わり」

 ヒナは溜め息をついた。俺は後悔した。たぶん今夜は眠れないだろう。

434: 2014/02/23(日) 23:26:02 ID:9D.mZxhQ


 
 俺の家とヒナの家は驚くほど近くにある。
 今まで登下校の途中で出会わなかったのが不思議なくらいに。

 ヒナの家の前に着いた後、俺はヒナが玄関に入るまでそこから動かない。
 ヒナもまた、後ろ髪をひかれるように、家の中に入ろうとしない。

 だから、このところ毎日、別れる前に、ヒナの家の前で少し話をしている。
 このあたりには顔見知りが多いから、そのうち誰かにからかわれるんじゃないかとひやひやする。

 話題と言えるほどの話題なんてなかった。

 天気のこと。食べ物のこと。昨日見たテレビのこと。学校でのこと。授業のこと。
 俺たちの会話はぎこちなくて、途切れ途切れで、でも心地よかった。

 ヒナは話が途切れるたびに、「あー」とか「うー」とか言って言葉を探す。
 言葉を探しているんだろうな、と俺は感じる。

 そのたびに、差し出せる言葉は差し出す。
 差し出せる言葉が見当たらなければ、俺も「あー」とか「うー」とか唸る。
 
 そのやりとりはなぜか心地よかった。
 沈黙さえ苦痛ではなかった。

435: 2014/02/23(日) 23:27:57 ID:9D.mZxhQ

 ときどき柔らかな風が吹いて、夕陽の余熱を静かに押し流した。
 近くの家の庭で、背の低い開きかけの向日葵がこてんと首を傾げる。

 とにかく何でもいいから言葉を発したくて、俺は目の前で起こったことすべてを口に出した。
 意識的に目の前で起こっていることを捉えようと努めた。

「風が気持ちいいな」と俺は言った。「うん」とヒナは頷いた。「肌寒くなってきたね」と彼女は続けた。
「向日葵、もう咲きそうだよ」と俺は言った。「そうだね」とヒナは頷いた。「少し早いよね?」

 向日葵は太陽を追いかける。太陽を見上げ続ける。
 花言葉はそのままだ。「あなただけを見つめる」。だから月や星には目もくれない。

 太陽の光。

「夏って、いいよね」

 不意に、ヒナはそんなことを言った。

436: 2014/02/23(日) 23:29:12 ID:9D.mZxhQ

「なに?」

「だから、夏。いいよね、夏って。あれ、夏、きらい?」

「好きではない。だって、暑いだろ」

 ヒナは少しむっとした顔になった。

「きっと、冬も好きじゃないんでしょ、ヒメは。寒いから」

 俺は答えなかった。彼女の言葉は当たっていた。

「逆に、夏のどんなところが好きなの?」

 俺の質問に、彼女は少し考え込んだようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
 こんな日常会話のどの部分に、決意が必要なのかは分からなかったけど。

「あのね、わたし、ガソリンスタンドの匂いが好きなんだ」

「……は?」

「黒板消しを叩いて掃除したときの、埃っぽい空気とか。
 泳いでるときに水を吸い込んじゃったときの、ちょっと苦しい感じとかも」

「……」

 変な子だとは思っていたが、突然こんな話をされるとさすがに反応に困る。

437: 2014/02/23(日) 23:30:15 ID:9D.mZxhQ

「そういう、匂いとか、空気とかが、夏になると、すごく鮮やかに感じられる気がするんだよ。
 向日葵の影が伸びる様子とか、蝉の鳴き声とか、雨や土の匂いとか」

「……ヒナは、たぶんさ」

「……なに?」

「同じ理由で、冬も好きだろ」

 彼女は少し考え込んでから、大真面目な顔で頷いた。

「そうかもしれない。朝目を覚ました時の布団のあたたかさとか、フローリングのきしっとした冷たさとか。
 よく晴れた日の朝に窓の外を見たときの、積もった雪の眩しさとか、ココアの甘味とか」

 俺が思わず笑うと、ヒナはまたむっとした顔になる。

「なんで笑うの?」

「ちょっとおかしかったから」

438: 2014/02/23(日) 23:32:02 ID:9D.mZxhQ

「おかしなことなんて何もないよ」とヒナは言った。

「そうかもしれない」

 俺が頷いた後も、彼女はまだ何か納得できないみたいに不機嫌そうな顔をしていた。
 聞き流されたと思ったのかもしれない。

「匂いか」

 と俺は呟くつもりもなく呟いた。ヒナは聞き逃さなかった。

「うん。ヒメは、ないの? 好きな匂い」

 世の中のどのくらいの学生が、好きな匂いの話なんてするんだろう。
 まあ、俺が思ってるよりは多いのかもしれない。知らないけど。

 雨上がりの土の匂い。プールの匂い。檸檬や蜜柑の香り。
 ヒナの言葉に影響されたせいかもしれない。思いつくイメージがやけに爽やかだった。
 それから……。

439: 2014/02/23(日) 23:32:49 ID:9D.mZxhQ

「ヒメ?」

「――え?」

「いま、ちょっとぼーっとしてたよ?」

 彼女は俺の顔を見上げて、少し心配そうに首を傾げる。
 俺は自分がイメージしていた光景を振り払おうとした。

「いや……」

 一瞬だけ、遠い記憶の中の"匂い"が、鼻先をかすめた気がした。
 それはただの錯覚だ。でも、そんな匂いがあったということを、俺は思い出してしまった。
 泣きそうになるくらい生々しい感覚。

 匂いは景色と結びついていたし、触覚と結びついていたし、出来事と結びついていた。
 匂い。"だれか"の。

440: 2014/02/23(日) 23:33:30 ID:9D.mZxhQ

「また、考え事?」

 ヒナは「仕方ないなあ」とでも言いたげな顔で笑った。なんでもないことのように。
 彼女はあっさりと俺を受け止める。簡単そうに。まるで子供の相手でもするみたいに。
 
 さっきまで不機嫌そうにしていたことも忘れて。

「ん」

 ヒナは、背伸びをした。それから俺の頭の上に手のひらを載せた。

「……なにやってんの?」

「撫でてあげようと思って」

「……」

「……ちょっと屈んでくれない?」

 なんとも間抜けな話だ。

441: 2014/02/23(日) 23:34:15 ID:9D.mZxhQ

 言われるがままに少し膝を折ると、ヒナは機嫌よさそうに俺の頭の上で手を軽く動かした。
 野良猫でも撫でるみたいに。

 それからふと思い出したみたいに、

「……こういうの、いや?」

 と不安そうに訊ねてくる。やってから不安になるっていうのも変なものだ。
 普通に恥ずかしいし、男子としてはいろいろと気まずいんだけれど。

 困ったことに、いやというわけでもなかった。
 それよりも彼女は、ここが自分の家の目の前だということを忘れているんだろうか。

「ヒナと話していると、いろんなことを考えているのが馬鹿らしくなってくる」

「それはとてもいいことだよ」

 たしかに、俺みたいな奴にとってはそうかもしれない。

「ありがたいことだ」

「うん。感謝しなさい」

 彼女はおどけて笑った。最近、ヒナはよく笑う。前までの、どこか怯えた感じはなりをひそめた。

442: 2014/02/23(日) 23:35:19 ID:9D.mZxhQ

 近くから人の話し声が聞こえて、ヒナは俺の頭から手を下ろした。俺は姿勢を元に戻す。
 向こうの角から、犬を連れて男の子が歩いてきた。散歩をしているんだろう。
 反対側から、主婦らしき女性が二人、世間話に興じながら、こちらに向かて歩いてくる。

 ここは誰かの生活の一部だ。

「……カレーの匂いがする」

 ヒナの言葉と同じことを、俺も感じる。
 同じ場所に立っている。同じ景色を見ている。映り方が違うとしても。

「そろそろ帰るよ」と俺は言った。俺がそう言わないと、いつまで経っても話は終わらなかった。

 ヒナはいつも、俺のその言葉に、ちょっと迷うような素振りを見せる。
 単に惜しんでいるというだけではなく、何かを言い損ねたような仕草。
 でも結局、彼女はわずかな沈黙の後、静かに頷く。

「また明日」とヒナは言う。
「また明日」と俺も答える。

 明日があるのはいいことだ。

443: 2014/02/23(日) 23:35:51 ID:9D.mZxhQ



 家に帰ってからすぐに自室に戻り、ベッドに寝そべった。
 何もする気が起きなかった。いろんなことが面倒だった。
 
 俺は仰向けに寝転がったまま、天井を見つめた。 
 正確にいうと天井を見つめるふりをして考え事をしていた。

 ヒナと話したあとは、いつも時間の流れる感覚が希薄だった。

 ただいま、と階下から声が聞こえた。
 妹が帰ってきたんだろう、と考えてから、少し驚く。

 時計を見ると、たしかに部活を終えた彼女が帰ってくる時間になっていた。

 溜め息をついて、天井から視線を下ろす。
 不思議と何もする気が起きなかった。

444: 2014/02/23(日) 23:36:48 ID:9D.mZxhQ

 そのまましばらくじっとしていると、下から階段を昇る足音が聞こえてくる。
 今は誰かと話をするのも億劫だった。

 やがて、不安げなノックの音な響き、ドアが軋んだ。
 
「お兄ちゃん?」

 続く声は、感情を隠すみたいな、素っ気ない声。

「……寝てるの?」

 返事をせずにいると、パチンという音がして部屋の灯りがつけられた。
 室内が明るくなった途端、さっきまで当然のように受け入れていた暗さが浮き彫りになった。
 まぶしさ。窓の外は深い青に沈んでいる。

 人家の灯り。

「……起きてた」

 独り言みたいに呟いてから、妹は静かに歩み寄ってくる。
 声の調子は、どこか怯えているようにも聞こえた。

445: 2014/02/23(日) 23:38:33 ID:9D.mZxhQ

 何も言わずに、彼女はベッドに腰掛けた。すぐ隣。俺は目も向けなかった。

「どうかしたの?」

 訊ねられて、俺はどうすればいいのか分からなくなってしまった。
 たまらない不安。泣きだしたいような衝動。何かが間違っている、と直感的に感じている。

「何かあったの?」

 返事もせずにいるのに、妹は続けてそう問いかけてくる。 
 彼女は既に悟っているのだ。「何かがあった」ということを。

 だから本当は、「何かあったの?」ではなく「何があったの?」と言ったのかもしれない。
 どちらにしても同じことだった。説明できるほどはっきりとしたことなんて、なにひとつ起こっていない。

 何も起こってなんていない。"にもかかわらず"、というところに問題がある。

「何もないよ」

 俺は取り繕うつもりもなくそう答えた。妹は静かに溜め息をついた。

446: 2014/02/23(日) 23:39:19 ID:9D.mZxhQ

「ね、お兄ちゃん」

「なに?」

 問い返す声は、自分でも呆れたくなるくらい、どうしようもなく、澱んだ声だった。
 馬鹿げてる。どうしてこんな気分になるんだろう。

 それなのに妹は、まるで気にしていないような素振りで、いつものような声で応じてくれる。

「おなかすいた」

「……うん」

 食事の用意は、分担していて。
 夕飯は、俺の担当だ。

 ちゃんと分かってる。身体がうまく動かないだけで。

「……体調悪いんだったら、何か買ってこようか?」

 黙り込んだままでいると、妹は気安げにそう言った。「仕方ないなあ」というような調子で。
 楽しそうに。でも、不安そうに聞こえる。たぶん何かを不安がってるんだろう。

447: 2014/02/23(日) 23:40:06 ID:9D.mZxhQ

 どうすればいいんだろう。その答えを俺はちゃんと知っていた。
 起き上がればいいのだ。起き上がって夕飯の準備をすればいい。

 冷蔵庫のなかにはまだ食材が残っているはずだった。
 手早く用意すればそう時間もかからない。手順だって浮かぶ。

 だって俺は至って健康なのだ。肉体的な不調はなにもない。ただなんとなく気怠いだけで。
 ただなんとなく、漠然とした不安があるだけで。

 なにが不安なんだろう。
 俺はヒナの顔を思い浮かべていた。不安になる理由なんてきっとないはずなのだ。
 彼女は俺を安心させるはずだ。現に俺は、彼女と一緒にいるとき、安心している。ちゃんと。

 じゃあ、この据わりの悪さはなんなんだろう。
 ひょっとしたら俺は、安心したくないのかもしれない。

 気分は戻らなかったけど、無理矢理体を起こす。このままでいるわけにはいかなかった。

 妹は一瞬、ほっとしたような顔をしたように見えたが、すぐにちょっと責めるみたいな顔を無理やりに作った。

「おなかすいた」

448: 2014/02/23(日) 23:40:52 ID:9D.mZxhQ

「うん」

 頷いて、どうしようかなと俺は考えた。料理をするのは別にいい。
 でも、いつも通りに料理をしてしまったら、きっと俺はこのまま気分を持ち直すことができそうにない。
 こういうときは、普段と違うことをするのが大事なのだ。

「外食しようか」

「今から?」

「うん」

 近所には一応手軽なファミリーレストランがあった。
 ファミリーレストラン。店の種類を気にしたって仕方ないけど、ちょっと毒素の強い言葉だ。
  
 妹はしばらく逡巡する気配を見せた。たぶん気が進まないんだろう。
 どうせ父親は帰ってこない。彼女だってちゃんと分かっているはずなのだ。
 俺のせいだけど。

449: 2014/02/23(日) 23:41:28 ID:9D.mZxhQ

「わかった」

 しばらくの沈黙の後、妹は溜め息交じりに頷いた。
 支度をして家を出た時には、辺りは真っ暗だった。

 街灯の灯りに羽虫が舞っている。人家の並ぶ通りだから、そう暗くはないけれど、夜だ。
 少し粘つくような鬱陶しい熱気。夜道を歩きながら、妹は大真面目な声で言った。

「ときどき、お兄ちゃんはわたしのことを遠くに見てるって気がする」

「遠くに?」

「うん。何か、自分とは別の場所にいる人間として見てるみたいな」

「なんだよ、それ」
 
 俺は笑い飛ばそうとしたけど、できなかった。喉が絡まったみたいに。
 ごまかすように咳払いをする。妹の視線はあくまでも平坦だった。

「ねえ、わたしは、いつだってお兄ちゃんの味方だよ」

 俺は答えなかった。"だからこそ"という問題もある。

450: 2014/02/23(日) 23:42:44 ID:9D.mZxhQ

 俺が思っていることを見透かしたのかもしれない、妹はあっさりとした口調で続けた。

「きっとお兄ちゃんが思っている以上に」

「それは、心強いな」

 どうして? と、問い返したかったけど、できなかった。そんな問い、答えがないに決まっている。
 あったとしても、俺はきっと信じられない。

「ねえ、だから、困ったり嫌になったりしたら、遠慮しなくていいんだよ。
 文句があるなら言ってもいいし、不安なことがあったら頼ってもいいんだよ。
 家族って、きっとそういうものなんでしょ?」

 その言葉は、たぶん本心からのものだったのだろう。そう思った。信じることはできた。
 できないのは納得だけだ。

「ごめんな」

 ごまかすみたいに謝ると、彼女は一瞬だけむっとした顔になったが、結局諦めたように溜め息をついた。
 それ以上は何も言ってくれなかった。

451: 2014/02/23(日) 23:43:58 ID:9D.mZxhQ



 ファミレスの中はそう混雑していなかった。流行っていない店なんだろう。
 あるいは時間帯の関係かもしれない。そもそもこんなものなのかもしれない。

 とにかく店の中は静かなものだった。

 ご自由な席にお座りください、と書かれた札が入ってすぐのカウンターのそばに立てられていた。
 めぼしい席に向かって歩く途中で、水を運ぶウェイトレスが「いらっしゃいませ」と愛想たっぷりの声で言った。
 声の割に、顔の愛想はそれほどでもなかった。

 俺たちは向かい合って座った。それからメニューを開く。
 妹はしばらく悩んでいた。

 店員が水を運んできて、注文が決まったらボタンを鳴らせという旨を儀礼的に伝えてくる。
 話しかけるというよりは、決まった音を再生するような調子で。

 オルゴールみたいに。
 でも、そのオルゴールの鳴らす音は健気に聞こえた。
「どうせわたしはオルゴールですが、オルゴールなりにあなたを歓迎しています。あなたは期待していないでしょうけど」というような。 
 やさしい人なんだろう。

452: 2014/02/23(日) 23:44:55 ID:9D.mZxhQ

 店の中ではビートルズが流れていた。
 たぶんビートルズだと思う。よく分からない。ひょっとしたらビートルズじゃないかもしれない。
 何もかもに自信が持てない。
 
 俺たちが店に入ってから、曲が三つ終わった。短くない時間が流れたのだ。

「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」が流れて、やっぱりビートルズだった、と俺は確信を持った。 

 必要なのは愛だ。愛。愛だよ。愛なんだよ。愛なんだって。愛だけなんだってば!
 どこか洗脳的にさえ聞こえる。なんて言ったら誰かに怒られそうだけど。

 どちらかというと説得的だったのかもしれない。
 信じてくれよ、と彼らが言外に言っているような気がした。分かるだろ、と。
 だからこそしつこいくらいに同じ言葉を繰り返したのかもしれない。ひょっとしたら。

 そういうふうに思った。なんとなく。
 まあどうでもいい。べつにビートルズに詳しいわけでもないし、好きなわけでもないから。

453: 2014/02/23(日) 23:45:44 ID:9D.mZxhQ

 次に「ハロー・グッドバイ」が流れ始めて、俺がほっとしたとき、妹はようやく注文を決めた。 
 かなり長い時間、何を注文するか迷っていた。たぶんこういう場所に慣れていないのだ。
 
 ボタンを押すと、従業員は静かに歩み寄ってきた。とても静かに。
 
 同じ人だったけれど、今度はオルゴールというよりは自動販売機みたいに見えた。
 こちらが何かを言うのを辛抱強く待っている。愛情深い自動販売機。

「わたしは自動販売機ですけど、自動販売機なりにがんばろうと思っています」
 そんなことを彼女の笑顔が言っているような気がした。

「それがあなたなりの労働倫理という奴ですか?」と俺は頭の中で問いかけた。

「どんな形であれ」と頭の中の彼女は答える。「関わる人を不愉快にさせたいとは思いません」
 すばらしい人格者だ。

「わたしが愛想を振りまいたり、丁寧な接客をすることで、誰かが喜んでくれるとしたら」と彼女は続ける。
「それはとても気持ちのいいことなんです」

 俺が頭のなかで腹話術みたいに会話を作っているうちに、妹は注文を済ませてしまった。
 ウェイトレスは優雅に注文を繰り返してから、機械と人間のちょうど中間くらいの声で何かを言った。
 それから可憐に去っていった。

454: 2014/02/23(日) 23:46:16 ID:9D.mZxhQ

 少ししてから、妹はじとっとした目でこちらを見た。

「見とれてた?」

「なにが」

「綺麗な人だったよね」

「誰が」

「さっきの人」

 なぜか責められている気がする。

「べつに見とれてたわけじゃない」

 事実を言っているのに、言い訳しているような気分になった。 

「そのわりには、じっと見てたよ」

455: 2014/02/23(日) 23:47:01 ID:9D.mZxhQ

「働いている人を見るとね」

「うん?」

「しっかりしなきゃって思うんだよ。もっと、自分のことだけじゃなくて、いろんな人の事を考えなきゃって」

「なにそれ?」
  
「まあ、働いている人なら誰でもってわけじゃない。ときどきそういう気分にさせられるんだ」

「よくわからないなあ」

 妹は溜め息をついて水を一口飲み、少し心配そうな顔で呟いた。

「……つまり、その、制服フェチなの?」

「……」

「……」

456: 2014/02/23(日) 23:47:47 ID:9D.mZxhQ



 ご注文の品は以上でお揃いでしょうか、とウェイトレスが言う。はい、と妹は頷く。
 ごゆっくりどうぞ、とウェイトレスは言う。俺は黙ってそのやりとりを聞き流した。

「こんなことわたしが訊くのも、変だと思うんだけどさ」

 妹は唐揚げを箸でつかんだまま、何か思い悩むような様子で、口を開いた。

「なに?」と俺は口に含んでいたハンバーグを咀嚼して飲み込んでから聞き返す。

「彼女できた?」

「うん」

「……そっか」

 沈黙。

 数秒後、

「……そっかあ」

 と彼女は深い溜め息をついた。

457: 2014/02/23(日) 23:49:49 ID:9D.mZxhQ

「なんかダメなの?」

 と俺は問い返す。いや、ダメと言われれば、まあ、毎朝妹に起こされておいて彼女というのも、とは思うのだが。

「ダメっていうか。ダメっていうか……」

「うん」

「なんか、こう……」

「なに」

「世話の焼ける弟に初めて彼女ができたみたいな気分」

「……」

 俺が兄なんだけどね。
 妹はそのまま黙り込んでしまった。

458: 2014/02/23(日) 23:51:20 ID:9D.mZxhQ

「良い子だよ」と俺は言った。

「かわいい?」

「とても」

「どのくらい?」

「ペーパームーンのアディとか、レオンのマチルダみたいに」

「……前から思ってたんだけど」

 彼女はまた心配そうな顔をした。

「なに?」

「……お兄ちゃんって、口リコンじゃないよね?」

「……それ、前から思ってたの?」

459: 2014/02/23(日) 23:51:51 ID:9D.mZxhQ



「それにしても、お兄ちゃんに彼女かあ」

 感慨深げに、妹は溜め息をついた。俺はちょっと疲れた。

「どんな人?」

「猫みたいな子」

 そう言ってから、なんとなく不十分だった気がして付け加える。

「屋上が好きなんだ」

「屋上?」

「うん」

「わたしも好きだよ、屋上」

「……」

 なぜそこで張り合うんだろう。

460: 2014/02/23(日) 23:52:34 ID:9D.mZxhQ

「ねえ、訊いてもいい?」

 妹は真剣な顔で言う。俺は頷いた。

「どうぞ」

「どんな気分なの?」

「何が?」

「誰かと付き合うって」

 変な質問だ。
 でも、彼女が聞きたがっていることはなんとなく分かった。だから俺は真剣に考えた。

「ずっと悪いことをしてるみたいな気がする」

「どうして?」

「性格の問題だろうね」

「わたしのせい?」

 俺は溜め息をついた。

461: 2014/02/23(日) 23:53:30 ID:9D.mZxhQ

「なんでもかんでも自分のせいだと思うのは、なんでもかんでも自分のおかげだって思うくらいの自意識過剰だ」

「そうかもしれないけど」

 でも、そう感じる、と言いたげに、彼女は俺をじっと見つめた。

「お兄ちゃんはわたしに遠慮してるみたいに感じる」

「遠慮?」

「お兄ちゃんは、まだ自分のせいだって思ってるんでしょ」

「何を?」

「……お母さんのこと」

「そういうわけじゃないよ」

 彼女は小さく溜め息をついた。

「お兄ちゃんは、嘘をつくとき、いつも目を逸らして、笑うよね」

 俺は溜め息をついた。

462: 2014/02/23(日) 23:54:31 ID:9D.mZxhQ

「ちょっとした仕草のひとつだよ。必然性なんてない」

「そうかもしれない」と妹は物わかりよく頷いた。
 そうじゃないかもしれない、とでも言いたげな顔で。

 思わず溜め息をつくと、妹もまた、小さく息を吐いた。

「お兄ちゃんは、覚えてないかもしれないけど、わたしは……」

 どこか苦しそうに、妹は言う。

「わたしは、わたしたちはね、覚えてないだろうけど、一度だけ……」

 やめろ、と俺は思った。その言葉の続きは言うな、と。
 
「たった一度だけ……」

 そこまで言いかけてから、彼女は思い直すように小さく頭を振った。
 俺はほっとして息を吐く。記憶に鼻をくすぐられて、耐えられないような後ろめたさを覚えた。
 俺はごまかすみたいに店内に視線を巡らせる。妹もまた、俯いたまま黙り込む。

 ふと、俺は店の中に知った顔を見つけた。
 喫煙席にひとりで座っている。テーブルの上にはたぶんコーヒーのカップだけ。
 高校の図書室の、司書さん。でも、なぜだろう?

 彼女は泣いていた。

463: 2014/02/23(日) 23:55:38 ID:9D.mZxhQ



 俺たちは食事を済ませた後店を出て、元来た道を歩き、家へと帰った。
 
 帰り道では言葉ひとつ交わさなかった。

 じりじりという虫の声がどこかから聞こえる。人家と街灯の薄明かり。
 隣を歩く、少しテンポの違う足音。

 俺たちは一緒に歩いているけれど、別々の線上を辿っている。
 それは平行線だった。ただ進んでいてはいつまでも交わることはない。
 そんなことは知っていた。

 何かを言いたかった。言葉が必要だったのだ。
 自分の中で渦巻いている不安や空虚感を紛らわすために。
 その感覚を表現し、助けを求めるために。

 でもそれは所詮絵空事でしかない。そこから得られるものは何もない。
 そんなことは知っていた。

 だから俺は何も言わない。

464: 2014/02/23(日) 23:56:19 ID:9D.mZxhQ

 家に帰った後も俺たちは言葉を交わさなかった。
 風呂を沸かして順番に入ってしまうと、そのままテレビもつけずに眠ることにした。
 俺も妹も何も言わないままそれぞれの部屋に戻った。

 そのあと彼女が眠ったのか、それとも何かほかのことをしていたのか、俺には分からない。
 部屋と部屋との間には壁がある。確認のしようがない。当り前の事だ。

 俺はベッドに寝転がって天井を見つめた。天井の一点を見つめていた。
 けれどそのうち分からなくなった。見つめていたのは天井ではなく壁だったのかもしれない。

 俺は瞼を閉じた。瞼を閉じると部屋の片隅で影がうごめくのが分かった。
 気配。物音だったかもしれない。影は触手のように腕を伸ばして俺の足首を掴んだ。
 そして声ならぬ声で俺にささやきかける。

"おまえが氏ねばよかったんだ"

 俺の体は凍てついたように身動きできなくなる。思考さえ凍り付き、何も分からなくなる。

"違う"、と俺は言う。"違う、違う"。

465: 2014/02/23(日) 23:56:54 ID:9D.mZxhQ

 影は世界だった。影の声は世界の声だった。けれど影の声は俺の声のようにも聞こえた。

 世界は俺の声というフィルターを通して俺に語り掛けていた。
 俺の目は俺の目というフィルター越しに世界を見ていた。

 だから俺の耳には世界がそう言っているように聞こえる。

 俺の意識は影に飲み込まれている。眠りが降ってくる。暴力的なほど唐突に。
 眠りの中の世界で、意味は混乱していた。

 眠りの世界において、人は人ではなかったし、声は声ではなかった。
 人も声も、一種の言葉でしかなかった。眠りの世界は言葉で構成されている。
 
 その中で「誰か」の言葉は「俺」の言葉だった。「誰か」は「俺」の一部だった。
「世界」は俺の意識だった。だから眠りの世界には俺しかいない。
 
 眠りについたままでは。

466: 2014/02/23(日) 23:57:51 ID:9D.mZxhQ



 暗闇の中、誰かがそばにいる。そばに座っている。
 目を瞑っているのに、そこに誰かがいるということが分かる。

 気配や感覚ではない。そこに誰かがいる、という事実が、ちゃんと理解できている。

 暖かい感触。誰かが俺の手のひらに触れる。

 感触。誰かが俺の腕を撫でている。俺はそれを静かに受け入れている。
 その感触はかすかに尖っていた。ちりちりというくすぐったさに似た性感。

 俺の体は緊張にこわばる。
 誰かは見透かしたように笑う。

 そこにあるのは契約だ。契約と履行。きわめて商業的で実務的なやりとり。
 対価は既に支払われていた。求められているのは対価に応じた業務。
 
 その空間の中で、人は人の形をした"もの"でしかなかった。何か別の"もの"。
 それは代替可能の記号だ。

 その記号は"だれか"という名前だった。

467: 2014/02/23(日) 23:59:02 ID:9D.mZxhQ

"だれか"である彼女たちは実に上手に業務を遂行していた。
 契約は履行されている。

 手のひらは静かに俺の体を撫でまわし始める。
 それは明らかに俺の肉体に対して働き掛けようとしていた。
 おそらくそれは官能的な出来事だった。そこで行われているのはきわめて肉体的なことだった。

 予感と刺激と感触。嗅覚を刺激する甘い匂い。それは"そう感じるように出来ている"。
"あらかじめ仕組まれている"。

"彼女たち"は神様によってつくられた。ある種の人々に快楽や一時の幸福感を与える為につくられた。
 あるいはひとつの代償、代替として。ひとつの歯車として。あるいは夢想、空想、理想として。
 人形劇の人形として。観賞用のドールとして。彼女たちはそのためだけに作られた。

 少女たちは実務的に体を動かす。実務的には見えないほど実務的に体を動かす。
 何もかもが、望みどおりになる。"そういうふうに作られている"。

 笑ってほしいと客が望めば笑う。泣いてほしいと客が望めば泣く。
 彼女たちはそれをとても上手にこなした。

 彼女たちは春を売らされていた。春を売るためだけに生み出された。

468: 2014/02/23(日) 23:59:37 ID:9D.mZxhQ

 少女はすべてを受け入れる。すべてを望むままにする。
 あるいは受け入れてほしくないと思うなら、少女は受け入れない。

 少女は何もかも望む通りに動く。
 求めれば、少女は肉体ではなく、精神を満たす。

 少女は"道具"だった。

 売り物は少女そのものではなく、少女を"使用"することで生れる満足、幸福、安心、充足だった。
 
「大丈夫だよ」と彼女たちは言う。

「何も心配しなくてもいい」と言う。

「あなたが必要」と言う。「わたしはあなたを必要としている」と何度も繰り返す。
「あなたがいてくれてよかった」とも彼女たちは言う。

「あなたのことが好き」、と彼女たちは言う。

 そして当然のように手を繋ぎ、唇を塞ぎ、肌を重ねる。
 誰かが望んだとおりに恥じらい、誰かが望んだとおりに喘ぎ、誰かが望んだとおりに乱れる。

 そして、誰に対しても、「こんな姿を見せるのは、あなただけ」だと言う。

469: 2014/02/24(月) 00:00:10 ID:ZiEnjXL2

 あるいは反対に、少女たちは「あなたなんていらない」とも言ってくれる。

「あなたなんていなければよかったのに」とも言ってくれる。
「あなたなんて大嫌い」とも言う。

「あなたのことなんて誰も好きにならない」、と彼女たちは言う。

 当然のように腕を弾き、目を逸らし、顔をしかめる。
 誰かが望んだとおりに拒み、誰かが望んだとおりに踏みつけにし、誰かが望んだとおりに蔑む。

「どうしてあんたなんかと」、と彼女たちは言う。

 すべては望みどおりになる。そういう場所。そのための場所。

470: 2014/02/24(月) 00:00:48 ID:ZiEnjXL2

「きみが好きだよ」と少女は言う。手のひらは俺の体を優しく撫でまわす。
 静かに体をこすりつけながら、彼女は俺の反応を窺う。

「嘘だね」と俺は言う。俺は怯えていた。

「本当」と少女は言う。言いながら唇を俺の首筋に当てる。
 舌先がちろちろと動き、生暖かい感触が伝わる。

 少女の髪からは甘い匂いがする。そういうふうに作られている。

「嘘だ」、と俺は繰り返す。彼女はくすりと笑うが、すぐにそれをかき消す。

「本当に好きだよ」と彼女は悲しげに微笑して俯く。俺は騙されて、罪悪感に目を逸らす。

471: 2014/02/24(月) 00:01:36 ID:ZiEnjXL2

「本当だよ」と少女は少し震えた声でささやく。
 動かしていた体を止め、真摯そうな瞳で俺を見つめる。

「……本当に?」と、俺は最後の抵抗を見せる。

「本当」と、彼女は苦しそうに言う。それからわずかに身じろぎする。
 彼女の髪の先が俺の肌をわずかにくすぐる。

「それが本当なら」、と俺は言う。彼女は怯えたような表情をつくってこちらを見上げる。

「とても嬉しい」と俺は騙される。彼女は嬉しそうに笑うと、目を細めて静かに顔を寄せてくる。
 俺は彼女の背中に手を回す。

 俺たちは唇を重ねる。
 虚構と現実。

472: 2014/02/24(月) 00:02:33 ID:ZiEnjXL2



 そして俺は、暗い部屋の中で目を覚ました。
 時刻はまだ夜だった。夜中に目をさましたのは初めてのことだ。

 暗闇の中で俺は得体の知れない気持ち悪さを覚えた。

 今すぐに戻してしまいそうな吐き気。誰かに全身をまさぐられているような言いようのない悪寒。
 何匹もの芋虫が服の中で這いうねっているような幻覚。
 
 その感覚を俺は感じていたけれど、きっとそれは俺が感じたものではなかった。
"だれか"が感じたものだ。"だれか"の感覚を、俺は想像してしまった。そしてそれは俺の脳で再現されている。

 喉までせり上がってきた胃の中のものが、少しでも体を動かしたら口の中に流れ出しそうだった。
 俺はみじろぎもせずにその感覚を受け流そうとする。
 呼吸の仕方をひとつ間違えば何もかもを吐き出してしまいそうだ。

473: 2014/02/24(月) 00:03:51 ID:ZiEnjXL2

"気持ち悪い"、と俺は思った。"気持ち悪い"。

 悪夢。悪夢だったのだ。そう思うと少し安堵できた。
 でも違う。それは"現実"なのだ。

"現に起こったことなのだ"。あるいは"起こっていること"なのだ。

 そしてそれは"俺"がしていることでもあった。
 俺は必氏に体を折り曲げ、涙を流しながらこみあげてくる嗚咽を堪えた。
 
 けれど不思議な充足感があった。この気持ち悪さ、吐き気、罪悪感……。
 それらはすべて俺が望んだことでもあったのだ。

474: 2014/02/24(月) 00:04:27 ID:ZiEnjXL2



 ノックの音が聞こえた。俺は意識を失っていた自分に気付く。
 窓からは太陽の光が差し込んでいた。その光がおぼろげに視界に入り込んでくる。

 いつものように妹の声が聞こえた。「起きてる?」と。「起きてる」と俺はやっとの思いで答えた。

「大丈夫?」

 声の調子で何かを察したんだろう。妹はすぐにベッドに近付いてきて、俺の顔を覗き込んだ。

「ひどい顔」

「元からだよ」

「もっとひどくなってる」

 否定してほしかった。

「大丈夫?」

 俺は身体を起こそうとした。起こそうとしたのに、体に力が入らなかった。

「……風邪?」

「どうかな」

475: 2014/02/24(月) 00:05:03 ID:ZiEnjXL2

 風邪ではないような気がした。でも、原因が分からない。ただ、肉体が不調を訴えている。
 間接が軋むたびに鋭い痛みが走り、頭痛は鐘の音のように鈍く響き続けている。
 体を起こそうとするとバランスが崩れる。世界がまるごとひっくり返ってしまいそうな感覚。

「……ひどいみたいだね」

 腕に力が入らない。声も、思うように出ない。意識がうすぼんやりとしていて、瞼を開けているのがつらい。

 何もかもが思う通りにならない。

「今日、休んだ方がいいんじゃない?」

 返事ができなかった。
 右手の肘から指先までに、びりびりという痺れが走る。感覚が鋭敏になる。

 妹は俺の額に手を当てた。その手の冷たさが心地よかった。
 心地良い分だけ、"気持ち悪い"。

476: 2014/02/24(月) 00:05:49 ID:ZiEnjXL2

「うん。今日は寝てなよ」

 妹は勝手に納得してしまったようだった。
 
 意識は既にあやふやで、何が起こっているのかよくわからない。
 泣きたいような感覚。

 俺は額に当てられた妹の手を探す。
 腕の感覚は既になかった。

「……どうしたの?」

 手のひらを握ると、彼女は戸惑ったような声をあげる。
 ただでさえおぼろげな視界が、涙で濁る。

 手のひらは冷たかった。暖かかった。心地よかった。気持ち悪かった。
 混濁した意識は"だれか"の手を求めていた。
 でも、"だれでもよかった"。

 俺の意識はふたたび失われる。「大丈夫だよ」、と誰かが最後に言う。
"気持ち悪い"。

477: 2014/02/24(月) 00:07:21 ID:ZiEnjXL2


 
「ねえ、お兄さん」

 眠りの淵で、そんな声を聞いた。

「わたしのことを憐れんでいるの?」

 彼女の声は澄んでいた。

「違うよ」

 俺の答えに、彼女は黙った。

「"捌け口探し"じゃなかったんだね」、と彼女は言った。

「お兄さん、わたしは、お兄さんみたいな人、あんまり好きじゃないけど、少しだけ同情してあげる」

 彼女は悲しそうだった。たぶん、泣いていたのだと思う。

「自己処罰のつもりだったんでしょ?」

 俺は答えなかった。

「わたしたちは少しだけ似ているのかもしれないね」

 声は途絶えた。俺の意識は眠りの中に引き戻される。

478: 2014/02/24(月) 00:07:59 ID:ZiEnjXL2



 そして、目を覚ました。ノックの音。でも違う。いつもとは違う。
 音の調子はほとんど変わらないけれど、控えめというよりは神経質な感じ。
 
 どこか堅い感じのするノック。それでも、俺は目をさました。

 でも、それは不思議なことだった。俺は妹の手助けがなければ、基本的に目を覚まさない。
 起きられるのは、眠りが浅いときだけ。夢まで見ていたのに、深い眠りではなかったんだろうか。

"だれか"がやってきた。

 窓の外の景色は藍色に染まっている。もう夕方なのだ。

 気配はふたつ、並んでいた。緊張しているように感じる。
 でも、その気配は、この場所に慣れている。俺の家を知っている。俺の部屋を知っている。
 俺のことを知っている。

「ヒメ?」

 と、俺を呼んだのは、女の声だった。
 次いで、繰り返されるノックの音。こちらの様子を窺っているのだ。
 俺は目をさましている。体調は悪くない。でも、返事はしなかった。

 声だけで、誰なのか分かってしまった。隣にいる相手のことだって。

479: 2014/02/24(月) 00:08:30 ID:ZiEnjXL2

 扉は俺の意思とは無関係にひらかれた。

「起きてた」

 部屋の外から顔を覗かせたのは、幼馴染の二人組だった。
 小学校のときからの付き合い。男二人に女一人の三人で、いつも遊んだ。

 馬鹿みたいにはしゃいで歩いた。
 自転車に乗って街中を探検した。くだらない遊びだっていくつも考えた。
 河川敷にロープや板切れを集めて、秘密基地を作った。人形遊びにも付き合わされた。

 俺たちはいつも一緒だった。

「やあ」、と女の方が言った。「やあ」、と俺は掠れた声で返事をした。

 目が合うと、男の方も「よう」と言った。「よう」、と少し間を置いてから俺は言った。

「なんだか久しぶりだね?」と女の方が言った。たいした皮肉だと俺は苦笑した。

480: 2014/02/24(月) 00:10:09 ID:ZiEnjXL2

「一年ぶりくらいかな」と俺は言った。

「数ヵ月ぶりだよ」、と男の方は言った。相変わらず冗談の通じない奴だ。

「学校休んでたから、心配で来ちゃった」

 女の方はたいして心配でもなさそうにそう言った。
 いつものようなぼんやりとした声。感情がうまく読み取れない表情。

「心配?」と鼻で笑うと、男の方の幼馴染が不愉快そうに目を眇めた。

「なんだよ、その態度。せっかく人が心配して――」

「――来てやったのに、って言いたいの?」

 我ながら見舞客に向ける態度じゃない。でも、彼らは不法侵入者でもあった。法的には。
 まあいいや、と俺は思った。

「来てくれてありがとう。ちょうど誰でもいいから来てほしいところだったんだ」

「相変わらず皮肉っぽい奴」

 男の方が苛立たしげに溜め息をつくと、女の方は楽しそうに笑った。

481: 2014/02/24(月) 00:11:28 ID:ZiEnjXL2

「家の鍵さ、場所変えてなかったんだね。玄関の植木鉢の下。防犯上よくないよ」

 女の方は真面目なんだかそうじゃないんだかよくわからない声で言った。
 そうだね、と俺は言った。

「ところで、なにをしにきたの?」

「なにしにって――」

 また、腹を立てて声を荒げそうになった男の方を、女の方が手で制する。
 そのまま彼女が言葉を引き継いだ。

「だから、お見舞い」

 そう言われても、俺は嬉しくなかったし、実感も持てなかった。
 そもそも、自分が学校を休んだのだという事実すら、いまいちつかめていなかった。
 学校への連絡は……たぶん、妹がしたのだろう。頭痛はまだ重く響いている。

「本当にそれだけ?」と俺は訊ねてみた。
 
 女は指先に棘が刺さったみたいな顔をした。

482: 2014/02/24(月) 00:12:01 ID:ZiEnjXL2

「本当に」と言いかけた女の言葉に、俺は声を重ねた。

「嘘つき」

 俺はせせら笑う。

「本当は?」

「……喧嘩の理由を、ね。聞かせてもらおうと思って」

「喧嘩?」

「したんでしょう?」

 彼女は静かに、俺ともうひとりの表情を見比べる。
 
「べつにしてないよ」

「嘘だよ」
 
 俺の返事に被せるように、彼女は言った。

「そのくらい、わたしにも分かるよ。もし何もないなら、どうして急に、話してくれなくなったの?」

483: 2014/02/24(月) 00:12:32 ID:ZiEnjXL2

「つまり、俺が体調を崩したのをいいことに、気になってたことを確認しにきたってわけか」

 吐き出す息が熱かった。言葉を発しているという実感が希薄だった。
 夢でも見ているような気がする。それもとびきり悪い夢。

 男の方が声を荒げた。

「そんな言い方することないだろ。俺だって、こいつだって、心配したよ」

「……」
 
 茶番じみていた。何もかもが。
 でも、いちいちそれを指摘することさえ億劫だ。
 なあ、頭が痛いんだよ、と、俺は心の中だけで呟いた。心配してくれよ、と。
 
「良い奴だよな、おまえらは」

 本心から吐き出した言葉。泣きだしそうになるくらい、実感のこもった言葉。
 それなのに、彼らは傷ついたような顔をした。
 まるで俺が、からかうか何かしたみたいに。

 長い時間一緒にいたとしても、それは結局、一緒にいただけのことだ。

484: 2014/02/24(月) 00:13:08 ID:ZiEnjXL2

 男の方は溜め息をついた。落ち着け、と彼は自分に言い聞かせているようだった。
 喧嘩をしにきたんじゃない、と彼の顔は言っていた。俺にもその程度のことは分かるのに。
 きっと、それは"俺のせい"なのだ。

「俺が、何か不愉快なことをしたなら、謝るよ」

 深呼吸をすると、彼の緊張は収まったみたいだった。
 久しぶりに会ったのに、俺が皮肉ばかり言ったせいだろう。彼はすごく苛立っていた。 
 でも、普段はとても穏やかな奴だ。たぶん。本当のことは分からない。

「べつに、そういうわけじゃない」

「……なら、いいんだ。別に。見舞いにきただけだからさ」

 男の方がそう言うと、女の方がほっとしたように溜め息をついた。
 この茶番はいつまで続くんだ?

485: 2014/02/24(月) 00:13:53 ID:ZiEnjXL2

「どうして急に体調なんて崩したんだ?」と男の方が訊ねる。

「さあ」

「もうよくなったの?」と女の方。

「正直、朝から今まで、記憶がない。ずっと眠ってた」

「……ひょっとして仮病だったとか?」からかうような声で、女の方。

 俺は、ごく控えめにいって、かなり苛立った。

「ま、結果だけ言えば、寝てただけだからね」

「なんだ、サボりだったのか」と、間延びした声で女は言う。
 こいつらの頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
 
「ヒメのことだからきっと、変なところで居眠りして、風邪ひいたとか、そんなことだろうと思ってた」

 女が笑うと、男も笑った。俺も笑った。彼らは俺が笑ったのを見て安心したように笑いを強めた。
 ――バカバカしかった。

486: 2014/02/24(月) 00:14:31 ID:ZiEnjXL2

「テストが終わったからって、あんまりサボるなよ」と男の方。

「ヒメはどうせ、授業でなくても勉強できるからいいんだろうけどさ」と女。

「あはは」と俺は笑った。自分でも分かるくらい平板な笑い方だった。
 でも、彼らは気にならないみたいだった。どうやら俺には愛想笑いの才能があるらしい。

「ねえ、ヒメ」と女の方が不安げに口を開く。

「昔みたいに、また、遊びに来てもいい?」

「いいよ」と俺は言ったが、少ししてヒナのことを思い出した。彼女はなんていうだろう。
 それすらも、今はどうでもいい。頭が痛い。うまく、考え事ができない。

「こうやって話してると、やっぱり落ち着く」、と女は言う。

「うん」と男の方はそっけなく頷いた。

 そうなんだ、と俺は思った。なあ、でも、そんなことより、俺はいま、頭が痛いんだ。とても。

487: 2014/02/24(月) 00:15:37 ID:ZiEnjXL2

 不意に、玄関の扉が開く音がした。俺は時計を見たけれど、まだ妹が帰ってくる時間ではない。 
 誰だろう、と考える。母は氏んだ。父は帰ってこない。この家に来る人なんて誰もいないはずなのだ。
 俺のせいで。

 この二人と話していると、俺はすごく孤独になる。強烈な疎外感に揺さぶられる。
 それも俺のせいで。

 靴を脱ぐ音。階段を昇る音。廊下を歩く音。
「誰?」と男の方が言う。「たぶん」と女の方が何かを言いかける。

 控えめなノックの音。

 ドアが軋む。

 当たり前のように部屋の中に踏み込んでくると、妹は周囲の様子を確認した。
 ベッドから体を起こさないままでいる俺を見て、少し不安そうな顔になる。

 それから、客人ふたりの姿を見て、怪訝げな顔をした。

「お邪魔してます」と女の方が言った。男の方は頭をさげた。

488: 2014/02/24(月) 00:16:10 ID:ZiEnjXL2

「どうも」と妹は儀礼的に返事をした。そしてごまかすような愛想笑い。
 彼女はきっと、彼らのことをあまり好きじゃなかった。

「えっと、お見舞いに来てて。ごめんね、勝手にあがっちゃって」女が言う。

 男は頷く。俺は溜め息をついた。

 妹はすぐに状況を把握したのか、戸惑ったような素振りも見せずに、二人に向き直る。

「そうですか」と、それだけ言って、彼女は手に持っていたビニール袋からペットボトルを取り出した。

「飲む?」

 俺は差し出されたスポーツドリンクを受け取る。ひどく、喉が渇いていたのだ。

「ありがとう」と俺は言った。

「どういたしまして」と妹はそっけなく言った。
 
 言葉以上に、俺は感謝していた。

489: 2014/02/24(月) 00:16:49 ID:ZiEnjXL2

「相変わらず、仲良いんだね?」

 女の方が言う。妹は返事をしなかった。さすがにまずいなと思って、俺が言葉を引き継ぐ。

「過保護なんだよ」

 もちろん、嘘だった。体よくあしらうための。

「ヒメがいけないんでしょ。その気になればなんでもできるくせに」

「なにそれ」

「わたしたちが苦労しないとできないことを、ヒメは簡単にこなすもんね。そのくせ、一番やる気がなくてさ」

 そういうふうに思われていたのか、と俺は思った。なんとなく、知っていたけれど。

「勉強もそうだし、家事も、運動も、ほとんどのこと」

 女の方は独り言のように続ける。男の方は気まずそうに黙っている。まるで口惜しがっているみたいだ。

490: 2014/02/24(月) 00:17:19 ID:ZiEnjXL2

 なあ、気付かないみたいだけど、気付かせないようにしてたんだけど、俺は頭が痛いんだよ。
 頭が痛い。隠していたから分からないんだろうけど。

 なんだか胸が苦しくなった、そんなとき、

「――帰ってください」

 声が鋭く、部屋に落ちた。

 声は、それまでの空気を切り裂いて粉々にした。
 俺は呆気にとられた。

「兄貴、まだ体調悪いみたいなんで、帰って下さい。話があるなら、治ってからにしてください」

「……あ、そうだよね」

 女の方は、少し唖然としていたが、やがて納得したように頷く。本心から納得したようには見えなかった。
 たぶん、彼女は俺の不調に気付いていなかった。あるいは信じていなかった。

 久しぶりだから? いろんなやりとりがあったせいで、表情の意味が掴みづらかったから?
 いずれにしても。

491: 2014/02/24(月) 00:17:53 ID:ZiEnjXL2

「それじゃあ、帰るね。また学校で」

 女の方はそう言って部屋から出る。男の方は軽く頭をさげて、それを追いかける。
 妹は追い出すみたいにして部屋の扉を閉めた。

 遠ざかる足音。階段の軋み。玄関のドア。閉まった。

 部屋の中には俺と妹だけが取り残された。痛いほどの静寂。

「学校、休んだの?」

 少しの沈黙の後、俺はそう訊ねた。

「覚えてないかもしれないけど、お兄ちゃん、ほとんど気を失うみたいに眠ってたんだよ」

「……放っておいてくれてよかったのに」
 
「真っ青な顔で眠りながら、ずっとうなされてる人を? ねえ、放っておくわけ、ないでしょ?」

「……うん。ありがとう」
 
 俺は本心からそう言った。妹は俯いてしまった。

492: 2014/02/24(月) 00:18:25 ID:ZiEnjXL2

「なあ」

「……なに?」

「どうしておまえが泣くんだ?」

「……お兄ちゃんは、どうして泣かないの?」

 俺は答えなかった。

「悲しくないの?」

「何が?」

「あの人たち、ずっと一緒にいたのに、お兄ちゃんのこと、何も知らないんだよ」

「……」

493: 2014/02/24(月) 00:19:06 ID:ZiEnjXL2

「お兄ちゃんが眠りたくて眠ってるんじゃないってこと。みんなに追いつくために、陰で一生懸命勉強してるってこと。
 家事だって、しなきゃならないから覚えたんだって。どうして、それをあんなふうに言えるの?」

「隠してるのに気付いてほしいなんて、虫の良すぎる話だろ」

「……どうして隠すの?」

「がんばるって、なんか、恥ずかしいだろ」

「……バカみたい」、と彼女は泣きながら笑った。俺は少しほっとした。

 隠しているから気付かれない。気付かれないのも、俺のせいだ。
 何もかもが全部。

「あの人たちは、お兄ちゃんのこと、何にも知らないんだよ」

「うん」

「それでも、お兄ちゃんは……」

 何かを言いかけて、妹の言葉は途切れた。
 きっと、彼女にだけは、全部を見透かされていた。いろんなことのすべて。
 反論のしようもないくらいに。

494: 2014/02/24(月) 00:19:38 ID:ZiEnjXL2



 玄関のベルが鳴った。微睡みから目を覚ます。意識が浮上する。
 俺は相変わらずベッドの上にいる。妹は既に部屋にはいなかった。
 
 時間は、いつ流れたのだろう?

 分からないけれど、とにかく時間は流れたに違いなかった。
 妹がこの場にいないんだから。

 体を起こす。ベルがもう一度鳴る。家の中からは物音がしない。
 妹はどこに行ってしまったんだろう? 誰が訪ねてきたんだろう?

 確認するには起き上がるしかない。

 重い体を動かして、ベッドから降りる。体調はまだ悪かったけれど、さっきまでよりだいぶマシだった。

495: 2014/02/24(月) 00:20:24 ID:ZiEnjXL2

「よう」

 体を引きずるようにして玄関に向かい扉を開けると、立っていたのはタイタンだった。

「これ、お土産」

 と言って、彼はコンビニのビニール袋をこちらに差し出してくる。受け取る。

「なにこれ」

「ポテチ」

 病人に対する手土産とは思えなかったが、まあ気遣いの形ではあるのだろう。

「体調平気?」

「まあ、なんとかね。心配かけた?」

「いや。でもまあ、一応見舞いしとこうと思って。義理でな」

 義理ですか、と俺は溜め息をついた。そうですか。

496: 2014/02/24(月) 00:21:53 ID:ZiEnjXL2

「風邪かなんか?」

「よく分からん。起きられなかった」

「……おまえ、やっぱり病気なんじゃないの?」

「かもしれない。あがっていく?」

「いいよ。まだ本調子じゃないんだろ」

「でも、何か用事があるんじゃないの?」

 タイタンは戸惑ったような顔をした。

「べつに、用事ってほどのもんはないけど」
 
「でも、なにか話があるんだろ」

「……なんで分かった?」

497: 2014/02/24(月) 00:22:44 ID:ZiEnjXL2

「顔つきがね」

「顔つき?」

「……うん。顔つき」

 タイタンはそのまま考え込んでしまった。体調はだいぶマシになった。
 それなのに、どうしても、さっきまでこの家にいた二人のことを思い出してしまう。

 あれは夢だったんだろうか? 
 どこからが現実なんだろう?

「じゃあ、あがらせてもらうよ」

 彼が頷いてくれたので、俺は自分の部屋に彼を招いた。 
 さすがに起き上がっているとつらいので、ことわりを入れてベッドに横になりながら話を聞こうとした。

 話を聞く準備は整っていたのに、彼は五分くらい、何も言ってくれなかった。
 枕元にリンゴと皿と包丁があったので、俺は暇つぶしに、上半身だけを起こしてリンゴの皮を剥いた。
 思ったよりもするすると手は動いた。こういうささやかな達成感の積み重ねが大事なのだ。

498: 2014/02/24(月) 00:23:31 ID:ZiEnjXL2

 リンゴの皮を剥き終え、切り分ける。そして種を取り始めた頃、タイタンは口を開いた。

「司書さんがさ」

 俺は彼の方を見たけれど、彼は俺の方を見ていなかった。自分の膝を見つめていた。

「司書さんの様子がさ、変なんだよ」

「……変?」

「うん。変なんだ」

 正直、戸惑った。いくつかの理由で。
 タイタンが司書さんの様子を気に掛けるのも意外だったし、それを俺に相談するのも意外だった。

「どんなふうに?」

「上の空なんだ」

「いつもぼんやりしてないか、あの人は」

「そういうのとはまた違うんだよ」とタイタンは少し強い口調で言った。
 俺が押し黙ると、彼は「すまん」と頭を振って額を抑える。

 俺は昨日ファミレスで見た光景を思い出す。彼女は泣いていた。

499: 2014/02/24(月) 00:24:15 ID:ZiEnjXL2

「なんていうか、思いつめてるみたいな。気のせいかもしれないけど」

 気のせいかもしれない、と思えるくらいの微細な変化に、彼はどうして気付けたんだろう。
 それだけ、普段から彼女のことを気に掛けていた、ということだろうか。

「何かあったんじゃないか」

 俺の適当きわまる答えに、タイタンは大真面目な顔で頷いた。

「そうかもしれない」

「……なあ、タイタン。それで、どうしたの?」

「どうしたって?」

「いや、落ち込んでるときくらい、誰にだってあるだろ」

「……そう、だよな」

 そうなんだけど、と彼は続けた。それから溜め息をつく。

「でも、気になるんだよ」

500: 2014/02/24(月) 00:25:11 ID:ZiEnjXL2

「気になる?」

 鸚鵡返し。タイタンは答えてくれなかった。

「ひょっとして……」

「何も言うな」

 俺は黙った。

「何も言うな」とタイタンは繰り返した。

 必氏そうな顔。何かを押し頃すみたいな声。
 さすがに何も言えなくなった。俺はリンゴをかじる。しゃりしゃりという音がする。

「……食べる?」

 訊ねながら皿を向けると、タイタンはリンゴをひとつ受け取り、黙ったままそれをかじった。

501: 2014/02/24(月) 00:25:46 ID:ZiEnjXL2

 続く沈黙に耐えられなくなって、俺は口を開いた。

「明日、学校に行ってさ」

「うん」とタイタンは頷く。俺はその反応に少しほっとする。

「司書さんに会って、話して、それでも様子がおかしかったら」

「……うん」

「何かあったんですか、って訊いてみるといい。訊いてみるしか、ない」

「なんでもないって言われたら?」

「その言葉を疑うにしろ、信じるにしろ、もうそれ以上は何も訊けないだろうな」

 タイタンはまた黙り込んだ。十五秒くらい。それからリンゴをもうひとつ手に取った。
 そしてあっというまに食べきってしまうと、彼は俺の方に顔を向けた。

「そうするよ。……今日はもう帰る」

502: 2014/02/24(月) 00:26:19 ID:ZiEnjXL2

「悪かったね、わざわざ来てもらって」

「いいよ、こっちも気まぐれで来ただけだから。明日にはよくなりそうか?」

「どうだろうね。いよいよ悪くなっていくばかりだという気がするな」

「どうして?」

 きっと本心では眠っていたいから。

「言ってみただけだよ」

「まあ、ゆっくり休めよ。近頃は、おまえも疲れてたみたいだから」

「……そう?」

「うん。そういうふうに見えたよ」

 そんな言葉を残して、タイタンは部屋を出て行った。

503: 2014/02/24(月) 00:27:08 ID:ZiEnjXL2



 それから俺はまた少し眠ったらしい。記憶は断絶的であてにならない。
 浮き沈みを繰り返す意識が、少しの間だけ現実で固定される。

 足音が聞こえて、ノックもなく扉が開いた。

「お兄ちゃん?」、と妹は俺を呼ぶ。とてもやさしい声だった。困ったことに。

「食欲、ある?」

「あんまり」

「でも、朝からほとんど何も食べてないよ」

"ほとんど"? 俺は今日、何かを口にしただろうか。
 そもそも今日は、本当に俺が思っている今日なのか? 
 意識がぼんやりとしているせいで、うまく考えがまとまらない。

「お粥つくったら、食べられる?」

「……うん」

 ふと、枕元に置きっぱなしだった携帯電話の存在を思い出す。 
 画面を見ると、メールが何通か届いていた。そのうちの一通はヒナからのものだった。

504: 2014/02/24(月) 00:27:41 ID:ZiEnjXL2

「風邪ひいたの? 大丈夫?」

 そっけない内容。午前十時頃に届いている。
 ふと時計を見ると、時刻は六時半を回っていた。

「今起きた。大丈夫」

 そう返信しよう、と思った。これでいいんだろうか、と俺は文章を点検する。
 たったこれだけの文章。俺はそれを四、五回読み返した。

 そして結局送った。

 もう一度携帯を枕元に放り投げ、ベッドに体を沈める。

「お兄ちゃん」と妹がもう一度俺のことを呼んだ。
 視線を向けても、彼女は何も言わなかった。
 何かを言いたげな顔でこちらを見ている。

505: 2014/02/24(月) 00:28:29 ID:ZiEnjXL2

「なに?」

 携帯をいじったり話をしたりしているうちに、意識は段々と冴えてきた。
 口から吐き出す息は熱くて苦しい。頭の中にはまだ鈍い痛みが響いている。

「早く元気になって」

 少し苦しそうな声。
 それだけで、少しだけ、何もかもが救われたような気がした。
 
 何もかもを受け入れられるような気がした。
 不思議と体調までが、楽になってくる。

「待ってるから」と妹は続けた。

「……うん」

 がんばるよ、と俺は言った。妹は頷いて、部屋を出て行った。

 暗くなった部屋に、俺だけが取り残される。
 さて、と俺は思う。

 がんばろう。

506: 2014/02/24(月) 00:30:53 ID:ZiEnjXL2



 妹がつくってくれたお粥を食べたあと、一日眠り続けたにも関わらず、俺は更に眠った。
 不思議なくらい、眠り続けることができた。

 醒めかけた夢の続きを取り戻そうとするみたいに。
 
 そして翌日の朝には、体調は万全になっていた。

 ベッドから体を起こし、カーテンを開ける。
 夏の太陽の光は躊躇なく部屋の中にそそぎこんだ。

 朝方静かに降っていたらしい雨が、わずかにアスファルトを濡らしている。
 陽射しの反射が、目に柔らかな痛みを伝えた。

 俺が目をさました時刻は、午前五時四十五分だった。
 こんなに朝早くに目がさめたのは初めてのことだ。

 神に祈りたくなるくらいの快挙。

507: 2014/02/24(月) 00:32:49 ID:ZiEnjXL2



 足音と、小さなノックの音。六時四十五分。
 俺が相槌のような返事をすると、妹は声も掛けずに扉を開けた。

 彼女はパジャマ姿のまま、ドアの陰からこちらを覗き込むようにした。
 俺は既に制服に着替え、鞄の中の教科書類を入れ替え、すっかり準備を終えていた。

「体調は?」

 あっけにとられたような表情で、妹はそう訊ねてきた。
 俺は端的に返事をした。

「とても元気」

「……どうして?」

「きっと看病が適切だったんだろ」

「……ばかみたい」

 彼女は少し照れたように顔を俯けた。

508: 2014/02/24(月) 00:33:40 ID:ZiEnjXL2

「学校、行くの?」

「学校に行かないのに制服に着替える奴なんているか?」

「たぶん、どこかにはいる。でも、熱、計った?」

「計ってないけど、たぶん平気」

「計って」

 妹は強い調子でそう言うと、部屋の中をぺたぺたと歩き、枕元に置きっぱなしになっていた体温計を俺に差し出す。

「計って」

 俺は仕方なく頷く。

「昨日は三十九度近くあったんだよ」

「嘘だろ?」と俺は訊ねた。

「本当」と彼女は答えた。

509: 2014/02/24(月) 00:35:18 ID:ZiEnjXL2



 体温計が弾き出した数字は平熱そのものだった。
 妹はその数字がよほど信用できなかったようで、三回計り直しを要求された。

 それでも似たような数字しか出なかったのがまだ不服だったらしい。
 最終的には自分の手のひらで俺の体温を計った。

 その後、まだどこか納得していないような顔のまま、ようやく体温計をしまってくれた。

「本当に学校に行くの?」

「身体がまともに動くうちは、休むわけにはいかないよ」

「病み上がりだし、無理したらその方が面倒だし、人に迷惑も掛かるよ」

510: 2014/02/24(月) 00:35:55 ID:ZiEnjXL2

「無理なんて全然感じないんだよな、それが。まるで体重がないみたいに簡単に動くんだ」

「……それ、余計にまずいんじゃ」

 妹の目元にはクマが見えた。かすかに。俺はそれについては何も言わなかった。

「面倒掛けたな。おかげで助かったよ。ありがとう」

「どういたしまして」

 妹はまだ不安そうな顔をしていた。

 でも、俺の気分は晴れ晴れとしていた。
 まるで何もなかったみたいに。

511: 2014/02/24(月) 00:37:26 ID:ZiEnjXL2



「今日は学校に行く」と朝のうちにヒナにメールを送っておいたら、すぐに返信が来た。

「もう平気なの?」という内容。

「たぶんね」とすぐに返信する。

「迎えにいくから待ってて」

 そのメールが届いてから十五分後、玄関のチャイムが鳴った。

「おはよう」

 走ってきたのだろうか。玄関に立つヒナは息を切らしていた。

「おはよう」と俺はこれ以上ないくらい爽やかな笑顔で挨拶した。
 が、彼女はかえって心配そうなそぶりを強めた。

「やっぱり今日も休んだ方がいいんじゃ……」
 
 失礼な奴だ。

512: 2014/02/24(月) 00:38:37 ID:ZiEnjXL2

 玄関で立ち話というのもなんだし、時間もまだ余裕があったので、ヒナをリビングにあげる。
 妹はきょとんとしていた。

「誰?」

 ヒナは慌てたように頭を下げた。

「はじめまして」

 妹も追いかけるように頭を下げた。

「はじめまして」

 そういえば、以前ヒナを招いたときは、妹がいないタイミングを見計らったんだっけ。
 説明が面倒で。

「妹」と、俺はまずヒナに向けて身内を紹介した。

「どうも、妹です」と彼女は名乗りもせずに立場を繰り返した。

「彼女」と今度は妹にヒナを示す。

「かの」

 とヒナは変な声を出した。

513: 2014/02/24(月) 00:39:26 ID:ZiEnjXL2

「……え、なに?」

「あ、ううん。なんでもない。彼女、彼女か」

 目を伏せられる。表情の変化が希薄なので、照れてるのか嫌がってるのかも分からない。

 それ以上に奇妙なのは妹の反応だった。
 ぼーっとした目でヒナを見ている。何かを確かめるみたいな目。

「どうした?」

 訊ねてみても、返事がない。
 ヒナは自分が見られているのだと気付いて、落ち着かなそうに体を揺らした。

「彼女?」

 と妹は繰り返した。

「たぶんね」と俺は答えた。

「たぶんってなに?」

 聞き捨てならないというふうにヒナが口を挟む。

514: 2014/02/24(月) 00:40:15 ID:ZiEnjXL2

「いや、なんか納得いかないみたいだったから」

「そんなことないよ。彼女。彼女です。彼女でいいです」

『でいいです』ってなんだよ、と思ったけど、きりがないのでやめた。

 妹は俺とヒナのやりとりをぼんやり眺めている。
 地上から飛行機を見上げるような目。
  
 妹はなんだか変な顔をした。彼女ができた、という話は、既にしていたはずだったのに。
 まるで初めて聞かされたみたいな顔をしている。

「うん」

 不意に、妹は頷いた。唐突に。そして俺の顔を振り返って、

「いいんじゃない?」

 と笑った。

515: 2014/02/24(月) 00:40:56 ID:ZiEnjXL2

「なにが?」

「良い人そうだよ」

 上から目線だ。ヒナは据わりが悪そうに身じろぎしている。
 無遠慮な視線に戸惑ったのか、もっと別の原因があるのか。
 
「えっと……」

「よろしくおねがいします」

 妹ははっきりした口調でヒナに向けてそういうと、深々と頭を下げた。

「こ、こちらこそ」

 ヒナはか細い声でそう返事をした。

516: 2014/02/24(月) 00:42:01 ID:ZiEnjXL2



 それじゃ、わたし今日日直だから早めに出るね、と見え透いた嘘をついて、妹は家を出た。

 いつも家を出る時間まで、時間が余っていたので、俺とヒナは空白の時間に取り残されてしまった。

「妹さん、綺麗だね」

「この町いちばんの美人だから」

 俺の答えに、ヒナは微妙そうな顔をする。
 まさか自分が町いちばんの美人だとは思っていないけれど、そう言われたら自分の立つ瀬がない、というような。

「自慢の妹だよ。目に入れても痛くない」

「シスコン」

「うん」

「……」

 彼女は溜め息をついた。

517: 2014/02/24(月) 00:42:41 ID:ZiEnjXL2

「だからヒナは町で二番目だな」

 喜んでいいのか微妙、という顔を彼女はする。
 もうちょっと言い方というものがあったはずだ。我ながら。 

 でも、冗談めかして言ったせいで、否定するとわざとらしくなる。

 それでちょっと黙ってしまうかと思ったら、ヒナはさして気にする風でもなく、話を変えた。

「ねえ、本当に平気?」

「なにが?」

「体調」

「元気」

「でも、変だよ、ヒメ」

「何が?」

「変だよ」

 とヒナは繰り返した。俺は何を言えばいいのか分からなかった。

518: 2014/02/24(月) 00:44:05 ID:ZiEnjXL2

「だって、ヒメ、いつもより、笑ってる」

 困惑した口調。

「すごく上手に笑ってる。自然に笑ってる。でも……」

 彼女は自分自身の言葉に戸惑っている。たぶん。
 
「……ひょっとして、無理してる?」

「べつに、そういうつもりはないんだけど」

 本当に、そういうつもりはなかった。

「じゃあ……」

 彼女はまだ何かの言葉を続けようとしていた。

519: 2014/02/24(月) 00:44:35 ID:ZiEnjXL2

 でも、そこで、奇妙な音が響いた。空虚な家の中で。数少ない、生きている感じがする音。

 ヒナはぎくりとした顔で俯いた。

「……ヒナ、朝ごはん食べてきた?」

 彼女はそれを肯定しなかったけれど、否定もしなかった。ただ頬を少し赤くして俯いた。

「パンでよければ焼くけど」

「……ごめん」

 俺は少し笑った。彼女もまた、少しほっとしたように笑った。

520: 2014/02/24(月) 00:45:31 ID:ZiEnjXL2



「ジャムは?」

「何があるの?」

「ブルーベリーとかいちごとかマーマレードとか。チョコもある」

「……じゃあ、いちご」

「うん。俺もそれがいいと思った」

「ヒメも食べるの?」

「俺は食べない。でもヒナはいかにもブルーベリーを選びそうだから」

「……どういうこと?」

「いかにもブルーベリーを選びそうな子がいちごを選ぶってかわいいと思う」

「……バカみたい」

 ヒナはダイニングの椅子に腰かけたまま。拗ねたみたいに顔を赤くしていた。
 そうなんだよな、と俺は思った。バカみたいなんだよ。

521: 2014/02/24(月) 00:46:22 ID:ZiEnjXL2

 トースターからはじき出された焦げ目のついた食パンに、バターナイフでジャムを塗りたくる。
 瓶詰のいちごジャムからは甘い匂いがした。

 窓の外を見ると、少し前までは残っていた雨の名残りが、綺麗に消えてなくなっていた。
 太陽の偉業。朝の光。闇を打ち消す。巨大な穴。

「ねえ、訊いてもいい?」

 俺が訪ねると、ヒナはトーストにかじりついたままこちらを睨んだ。
 睨んだように見えただけかもしれない。

「心配した?」と俺は訊ねた。

 ヒナはもぐもぐとトーストを咀嚼し、嚥下してから、口元を軽く拭った。
 それから長い溜め息をつき、

「とても」

 と小さく呟いて、食べるのを再開した。

522: 2014/02/24(月) 00:47:21 ID:ZiEnjXL2



 一緒に家を出て、一緒に登校すると、なんだか同棲してるみたいだよな、と思った。

 思ったままに口に出したら、ヒナは「ばかみたい」とまた目を逸らす。

 玄関の鍵をしめた後、俺は植木鉢の下を確かめた。鍵はそこに入っていた。
 俺も妹も合鍵を持っている。俺はその鍵をそのままポケットに入れた。

「行こうか」

 声を掛けると、ヒナは何も言わずに頷いた。
 住宅地を抜けてバス停まで。

 太陽の光は朝だけあってまだ控えめだったけれど、それでも滲むような熱を伴っている。

523: 2014/02/24(月) 00:48:02 ID:ZiEnjXL2

 ヒナはもう、俺の体調について何か訊こうとはしなかった。俺の態度についても。

 でも、どこか、引っかかってしまったんだろうか。
 体調についてでも態度についてでもない質問が、ひとつだけ続いた。

「ねえ、ヒメ」

「なに?」

「何か、忘れてない?」

「べつに何も」

 何も忘れてなんていない。そのはずだ。

524: 2014/02/24(月) 00:48:58 ID:ZiEnjXL2



 学校に着いた後、ヒナと別れて教室に向かう途中で、やっぱり何かを忘れているような気がした。

 それがなんなのかは分からない。
 とにかく「何か」を忘れているような気がした。
 その感覚はしばらく俺に付きまとっていたけれど、無視しているうちに消えてくれた。

 重要なのは半径十五メートルの現実だ。
 
 俺の席にはタイタンが座っていた。なぜか。彼はぼんやりとした顔で空を眺めている。
 横顔だけだと荘厳だ。

 声を掛けると、彼はちらりと視線をこちらによこして頷くと、また窓の外を見るのを再開した。

 タイタンの周りだけ、秋の日暮れのような空気になっている。

525: 2014/02/24(月) 00:50:35 ID:ZiEnjXL2

「考えごと?」

「まあな」

「昨日の話?」

「……うん。そういえばおまえ、体調は?」

「まあ、だいぶマシになったよ」

 タイタンは俺の席を立つと、空いていた前の席の椅子を借りた。

「本当にマシになったみたいだな」と彼は言った。どういう意味だろう?

「顔つきがね」
 
 彼にしては珍しい、わざとらしい口調。

「顔つきがいつもと違う」

「いつもより爽やか?」

「というより、若返ってるな」

 軽い冗談のつもりだったのだが、受け流されると自分が痛い。

526: 2014/02/24(月) 00:51:09 ID:ZiEnjXL2

「バカみたいに明るい顔をしてる。自然に。それもまあ、べつに悪くない」

「明るくもなるだろ。見ろよ、窓の外を」

 俺の言葉に、タイタンはもう一度窓の外を睨む。眩しそうに。

「太陽がバカみたいに眩しい。空がバカみたいに青い」

「うん」

「これで明るくならなかったら嘘だろ?」

「……意味が分からん」

 タイタンは呆れたように溜め息をついた。どうも落ち込んでいるらしい。
 俺は仕方なく話を振った。

「図書室、行ったの?」

「まあ、うん」

527: 2014/02/24(月) 00:51:52 ID:ZiEnjXL2

 よく分からなかったよ、とタイタンは言った。

「どういう意味?」

「一応、話してくれたんだけど、よく分からなかった。はぐらかされたのかもしれない。
 それはそうなんだよな。何かあったとしても、俺に話すわけがないんだ」

「……まあ、そうだな」

 タイタンは何も言わなかった。俺も何も言えなかった。
 沈黙。

「……元気出せよ」

 自分が発した言葉なのに、すごく安っぽく聞こえた。
 でもまあ、こんなもんだ、と俺は思った。こんなもんなんだ。

 安っぽいものなんだよ。そうじゃない言葉は簡単には出てこない。
 受け入れろ。受け入れてしまえば簡単なことなんだ。

 授業が始まる間際、例の幼馴染の二人組が教室に入ってきた。
 急いで来たらしく、息を切らしている。彼等は俺に向けて手を振った。俺は軽く振りかえした。

528: 2014/02/24(月) 00:52:38 ID:ZiEnjXL2



 昼休みになると、教室の入り口からヒナが姿を覗かせた。
 俺は彼女がこちらを見ていることに気付いた。

 目が合うと、ヒナは俺を小さく手招きした。人目をちらちらと気にしながら。
 仕方なく立ち上がり、歩み寄る。

「なに?」

「お昼。いっしょに食べようと思って」

「ああ、うん。いいよ」

 そう返事をしてから、席に戻って鞄を開ける。
 弁当箱の入った小さな巾着袋。

 一瞬ちょっとした違和感が生まれたが、すぐに気にならなくなった。

529: 2014/02/24(月) 00:53:16 ID:ZiEnjXL2



「天気がいいから屋上にしよう」
 
 提案したのはヒナだった。俺たちは階段を昇って校舎の屋上に出る。
 風はゆるく吹いていた。真昼の太陽が街中を照らしている。
 
 俺たちは給水塔の陰に腰かけた。
 ぬるい風。

 俺たちは並んで腰かけて、それぞれに弁当を広げた。
 特に意味もなく距離が近い。

「ヒメは、お弁当、自分で作ってるの?」

「うん。あ、いや」

「……どっち?」

「妹が作ってくれてる。俺、朝起きられないから」

「ふうん。自分の分と一緒に?」

530: 2014/02/24(月) 00:54:00 ID:ZiEnjXL2

「いや。中学は給食だから……」

「ヒメの分だけ? なんか、それって……」

 ヒナは何かを言いかけてやめた。俺はその言葉の続きをあまり気にしないことにした。
 
「じゃあ、とにかく、ヒメのお弁当は、町いちばんの美人作ってことだ」

「そうなるな」と俺は曖昧に頷いた。

「俺には過ぎた幸せですよ」

 ヒナは少し笑ってから、目を伏せた。すごく短い時間のことだったけど、目を伏せたように見えた。
 彼女はどう思っただろう。そう考えると怖くなった。

 ふと空を見ると鳥の影が降ってきた。一瞬のことだ。すぐに通り過ぎていってしまった。

531: 2014/02/24(月) 00:54:45 ID:ZiEnjXL2

 柔らかな真昼の日差しは、抽象的なぬくもりになって俺たちを包んでいた。
 春の風や秋の夜や冬の朝のように。
 世界は光とぬくもりに満ちている。

 嘘みたいに。

 溜め息が漏れ出た。「どうしたの?」と箸をとめてヒナは訊ねてくる。

「なんでもないよ。ただ、穏やかだと思って」

「穏やか?」

「太陽の光が……」

「……どういう意味?」

「いつもは、もっと刺々しい感じがする」

「……そう?」

 ヒナはまったく共感できないというふうに首をかしげて、ちょっと笑った。
 感覚の違いが面白かったのかもしれない。

532: 2014/02/24(月) 00:55:29 ID:ZiEnjXL2

「ヒナと一緒だからかもしれない」

「なにが?」

「太陽が穏やかなのは」

「……ばかみたい」と彼女は照れもせず笑った。

 変なことを言ってしまった、とまた少し怖くなる。
 いつもの裁判。
 
 弁護人も証人もいない裁判。
 ただ被告の罪だけが読み上げられる。整合性も客観性も必要とされない。
 自分の言葉、行動のひとつひとつがとりあげられ、何度も繰り返され、責めたてられる。

 少し前まで胸から離れることのなかった、そうした心の動き。
 でも、今日はそんな気持ちすら、長続きしなかった。太陽がすごく穏やかだから。

「風が気持ちいいね」とヒナは言った。本当に風が気持ちよかった。

 ふと、風に『匂い』があることに気付く。あるいは、思い出す。
 俺は笑ってしまった。

533: 2014/02/24(月) 00:56:22 ID:ZiEnjXL2

「どうしたの、急に」

「いや、こんな時間の過ごし方もあるんだと思って」

「どういう意味?」

 俺は少し答えあぐねた。簡単には言葉にできそうにない。
 でも、口に出してみたくなった。

「時間の経過っていうのを、俺は重く考えすぎていたのかもしれない。
 切迫した事態が目の前にあって、それを今すぐにどうにかしなくちゃいけない、というふうに」

「……うん」

「でも、そうじゃないんだよな。大事なのはこの感覚なんだよ、きっと。
 半径十五メートルの現実の手触りみたいなもの。俺はちょっと遠くのことを考えすぎていたんだ」

「ヒメは生きるのが下手だからね」

「ヒナもね」

「だから好きなんだよ」とヒナは言った。俺はちょっとびっくりした。
 俺の顔を見て、彼女は「してやったり」というような得意げな顔で笑った。
 かなわないな、と俺は思った。

534: 2014/02/24(月) 00:57:04 ID:ZiEnjXL2



「なんだか、眠い……」

「あったかいもんね」

「……うん」

「眠ってもいいよ」

「……でも」

「ちゃんとわたしが起こすから」

「……俺は」

「大丈夫。問題なんて何もないよ」

「……うん」

「不安がることなんて、なにひとつない。当たり前みたいな日々が、続いていくだけなんだよ」

「……うん」

 柔らかな日差しとぬくもり。誰かの手が俺の手を握っている。瞼越しに感じる肌色の明かり。 
 ぬるい風が運ぶ夏の匂い。階下から誰かがはしゃぐ遠い声。心地いい微睡み。誰かが傍にいる。

 こんな日が続けばいいのに。

535: 2014/02/24(月) 00:58:07 ID:ZiEnjXL2



 放課後、俺はヒナを連れて図書室に向かった。
 タイタンが言っていた通り様子がおかしいのかどうか、確かめておきたかったのだ。

 隠れ家のような図書室のカウンターの中、司書さんは一人で本を読んでいた。

「何を読んでるんですか」

 俺がそう声を掛けると、彼女はそのときようやくこちらの存在に気付いたみたいだった。
 ごまかすみたいに笑う。

「ちょっとね」

 言いたくないのかもしれない。
 それから司書さんは、思い出したように続けた。

「そういえば、昨日体調崩して休んだって聞いたけど」

「朝起きたら治ってました」

 司書さんは笑った。

「疲れ、溜まってたのかもね。今日は、なにか借りていく?」

536: 2014/02/24(月) 00:58:40 ID:ZiEnjXL2

「いえ、やめときます」
 
 俺の答えに、司書さんは意外そうな顔をした。

「珍しいね?」

「読みたい本があったんですよ。ずっと思い出せなかったんですけど、ようやく思い出せました」

「なんて本?」

「生誕の災厄」

「……」

「でも、やめました。忘れてたから気になっていただけで、特別読みたいとも思いませんから」

「そもそも、この図書室にシオランはないような気がするな」

「もうやめることにしたんですよ」

 司書さんは困った顔をしていた。

537: 2014/02/24(月) 00:59:37 ID:ZiEnjXL2

「あ、そうだ。一昨日、ごめんね」

「なにがですか?」

 本当に何の話なのか分からずに問い返すと、彼女はちょっと気まずそうな顔をする。

「いや、変なこと言って、怒らせちゃったような気がしたから」

 ああ、と俺は思った。

「こちらこそ、なんか妙な態度をとっちゃって」

 謝りながら、俺は一昨日交わした会話の詳細を思い出せなくなってしまっている自分に気が付いた。
 
 それにしても、と俺は思った。
 たしかに、司書さんの態度はいつもと違う。
 発する言葉や表情はいつもとそう変わらないのに、雰囲気がまったくちがう。

 落ち込んでいるというよりは、とめどない憂鬱に体を乗っ取られてしまっているみたいだ。

538: 2014/02/24(月) 01:00:13 ID:ZiEnjXL2

「なにかありましたか?」

 訊ねると、司書さんの表情はこわばった。

「みんなに言われる。そんなに分かりやすい?」

「まあ、はい」

 嘘をついた。タイタンに言われていなかったら、俺は変化に気付かなかっただろう。

「夢を見るの」

「夢?」

「うん。夢。幸せな夢。ほとんど、現実にあったことみたいに、リアリティのある夢。
 毎晩のように見るの。今だって思い出せる。たしかに起こったことみたいに思えるの。
 そしてそれが――これから、現実に起こるんだ、って感じる。変でしょう?」

「……予知夢、ですか?」

 うん、と司書さんは頷く。俺の隣で、ヒナは落ち着かなさそうに周囲の様子をうかがっている。

539: 2014/02/24(月) 01:01:10 ID:ZiEnjXL2

「つまりね、わたしは未来の現実を夢に見てるの。
 それはこれから起こることなんだけど、"起こった"ことなの。そのことを知ってるんだよ。
 これから起こるっていうのが分かるんじゃない。現に起こったことを、知っている」

 はぐらかされた、とタイタンが言った意味が、なんとなく分かった。
 彼女はもどかしそうに頭を振る。

「伝わらないだろうけど、でも、わたしは知っているの。これから起こることを、既に知っている。 
 夢を見るって言ったけど、ちょっと違うかもしれない。
 記憶として抱えているの。それがたしかに起こったっていう記憶を。だから思い返すように夢に見ているだけなんだ」

 彼女は溜め息をついた。

「ごめんなさい。自分でも、よく分からないんだけど、今だってその夢の内容を、本当にあったことみたいに感じてるの」

「……どんな夢なんですか?」

「とても幸せなことが起こるの。今週の、土曜の夜。時間だって場所だって思い出せる。
 とても嬉しかったから……だからわたしはお願いしたの。
 たとえ後悔することになってもかまわないから、何があっても今日のことを絶対に忘れないままでいさせてって。 
 こんなにも大きな幸せを感じた日があったことを、絶対に忘れたくないって」

540: 2014/02/24(月) 01:02:37 ID:ZiEnjXL2

「"お願い"? 誰に?」

 彼女は口を噤んでしまった。何をどういえば分からない、というふうに。

「でも、幸せな夢なんでしょう?」

 司書さんは困ったふうに笑った。俺は彼女のことが分からなくなった。

「ずっと覚えていると、段々と不安になってきてね、冷静になるだけの時間が、あるからなんだろうけど……。
 その夢の中のわたしは、まったく感じていないんだけど……段々、怖くなるの。
 わたしにその幸せを受け取るだけの権利があるんだろうか、って。幸せになる資格があるんだろうかって」

「幸せになるのに、資格も権利もないでしょう」

 と俺は一般論を言った。一般論。こういうのは楽でいい。
 自分であることを求められない。大勢の他者によってあらかじめ結論が補強されている。
 権威主義的なきれいごと。とても高圧的。

「実際的な思考とは関係ないの。そういうのはね、思考じゃなくて、認知なのよ。実感なの。
 無時間的に"降ってくる"感覚なの。逃れようがない。
 そういう認識は主観的に肥大して、思考を停止させる。一種の確信なのよ」

「分かるような気がする」と俺は本心のつもりで頷いたが、彼女が信じてくれたかどうかは怪しいところだ。
「怪しいところだ」と感じてしまう自分自身の心理過程。無時間的に"降ってきた"実感。

541: 2014/02/24(月) 01:03:30 ID:ZiEnjXL2

 本人の意思とは無関係に、胸を塞ぐような不安を押し付ける、強迫観念。
 問答無用に脳を埋め尽くし、視野狭窄を招く、衝動のような感覚。

 ほとんどパニックのような感情のうねり。

「タイタンが」、と俺は言った。

「心配していましたよ。元気がないみたいだって」

 司書さんは答えてくれなかった。彼女は疑わしそうな目で俺を見た。

「俺も、心配しています」

 彼女はたぶん、俺の言葉を信じていない。「嘘ばっかり」というふうに笑った。
「疑いたい」わけじゃない。「疑ってしまう」のだ。意思とは無関係に。
 実感として"信じられない"。思考とは関係ない。

 そういうことは俺にだって分かる。ちゃんと分かる。

542: 2014/02/24(月) 01:04:00 ID:ZiEnjXL2



 図書室を出た後、すぐに帰ろうとしたのだけれど、どうしても気分が落ち着かなかった。
 何かしら変化を求めていた。

「なあ」

「なに?」

「屋上に行きたい」

「どうして?」

「高い場所から街を見下ろしてみたい」

 ヒナは変なものを見るような顔をした。

543: 2014/02/24(月) 01:05:26 ID:ZiEnjXL2



 屋上に出ると、昼下がりの太陽はまだ眩しかった。

「ねえ、ヒメ、訊いてもいい?」

「なに?」

「ヒメが書いた小説のこと」

 ヒナの髪は風にさらわれて細くなびく。強い日差しの下で、彼女の横顔は作り物みたいに綺麗だった。
 本当に綺麗だと思った。見とれるくらいに。

「箱って、結局なんなの?」

「なにって?」

「つまり、何かの比喩なのかなって思ったの」

「比喩?」

「つまり、肉体とか、もしくは、外面とか」

544: 2014/02/24(月) 01:06:29 ID:ZiEnjXL2

「べつにそういうつもりじゃなかったよ」

「じゃあ、どういうつもりだったの?」

 説明するのは難しかっし、仮に説明できたとしても、誰かを納得させることなんてできないだろう。
 そう思ったから、物語という形をとらざるを得なかった。
 閉じた話。

「あれは実感だよ」

「実感?」

「つまり、箱の中にいる、って感じるときがあるんだよ」

 ヒナは黙って俺の言葉の続きを待った。彼女は俺をせかさない。

「箱。どうあがいても壊せない壁があって、そのせいでときどき誰かが氏ぬ。
 みんな箱に対していろんな考え方をしてる。箱なんてないみたいに振る舞う奴もいる。
 どうにかして箱を壊そうとする奴もいるし、諦めて氏んでしまう奴もいる」

545: 2014/02/24(月) 01:07:46 ID:ZiEnjXL2

「そして、箱から抜け出せる人も、ときどきいる、ってこと?」

「たぶんね。抜け出したように見えるだけかもしれないけど。でも、問題はそこじゃないだ。
 抜け出した人がいるとして……でも、"抜け出せる"のは俺じゃないんだ。
 俺はその人を眺めているだけなんだよ。俺は箱の中に取り残されているんだ。身じろぎもせずに」

「よく分からないけど、それが"実感"っていうなら……。
 ヒメは、そういうふうに感じてたの? ヒメには、世界がそんなふうに見えていたの?」

 そうなんだろう。たぶん。よくわからないまま書いたから、自分でもはっきりとは言い切れないけど。
 それでも、俺は頷いた。たぶん、そういうふうに感じていた。たぶん、今もそういうふうに感じている。

「じゃあさ」

 彼女は、感情の読み取りにくい、そっけない表情で、言った。

546: 2014/02/24(月) 01:08:36 ID:ZiEnjXL2

「わたしとヒメも、別々の箱? 音も伝わらないような箱の中?」

「……まあ、そうなんだろうね」

 あの話の中では、というつもりで、俺は言った。

「ヒメは今も、箱の中?」

 さあ、と俺は思った。よく分からなかった。何がどうなれば、箱の中にいないことになるのか。

「どうかな。ときどき、箱なんてないんじゃないかと思うときもある。
 でも、折に触れて実感するんだよ。やっぱり箱があるんだって」

「そんな考え方、やめたら?」

547: 2014/02/24(月) 01:09:44 ID:ZiEnjXL2

 俺は溜め息をついて言葉を重ねた。

「コップに、半分水が入っているとき、"半分も"と思うか、"半分しか"と思うか」

「心理テスト? ポジティブかネガティブかっていう」

「うん」

「わたしは、半分しか、って思っちゃうけどな」

「このテストの結果に信頼がおけるかどうかはどうでもいいんだ。
 問題はさ、"半分も"とか、"半分しか"とか、そう感じるのに、その人の意思は関係ないってところにあるんだよ」

「どういうこと?」

「そういうのは、意識してそう考えようとして出てくる感覚じゃない。
"コップに水が半分入っている"と感じた次の瞬間には、"半分しか"とか"半分も"とか考えてるんだ。
 意思じゃどうにもならない。それは降ってくる実感なんだよ。反射みたいにさ」

「……」

「簡単には逃れられないよ。本人からすれば、それは『事実』みたいに思えるんだ」

548: 2014/02/24(月) 01:10:38 ID:ZiEnjXL2

 ゆるい風が俺たちの間を吹き抜けていった。「隙間」がある。宿命的な隙間。
 それを"どう感じるか"は、人それぞれ違う。

 隙間があったってかまわない。隙間があるからこそ、と誰かが言う。
 でもその"だれか"は俺じゃない。

「それって、寂しいね」

 ヒナは、俺の顔を見ないで、呟くみたいに言った。

「わたし、そんなこと考えたこともなかった。ただ、人と話すのが苦手なんだよ。
 上手く話せなくて、きっとみんなに呆れられるって思うから、あんまり話さなくなった。
 そしたら、どんどん、話せなくなってきた。本当は、誰かに聞いてほしかったんだよ」

549: 2014/02/24(月) 01:11:46 ID:ZiEnjXL2

 ばかみたい、と彼女は自嘲した。

「みんな、わたしに話しかけなくなったけど、ヒメは、わたしの話、聞いてくれた。
 どれだけ下手でも、わたしの話を最後まで聞いてくれた。話し終わるまで、ちゃんと待っててくれた。
 だからわたしは、ヒメともっと近づきたくなったんだ。でも、ヒメは、わたしにも透明な壁を感じていたの?」

 もう一度、風が吹き抜けた。どうだろう、と、俺は少し考えた。
 少しだけ気分は晴れていた。

 壁? 壁なんてどこにもない。
 ここはとても風通しのいい場所だ。

「少なくとも今は……ヒナと話しているときは、箱なんてないような気がする」
 
 ヒナは楽しそうに笑った。俺はその笑顔が嬉しかった。

 嬉しかったのだ。

550: 2014/02/24(月) 01:12:33 ID:ZiEnjXL2



 鉄扉が軋みをあげたとき、俺の心臓は少し跳ねた。嫌な感じに。

 思わず顔を向けると、そこには知った顔があった。

 幼馴染の片割れ。男の方。

 彼はこちらに気付いて、はっとした。

「……やあ」

「ああ、うん」

 俺は曖昧に頷いた。あまり話したい相手じゃない。
 避けているわけじゃない。どんな言葉を交わせばいいのか、分からないのだ。

「体調は、どう?」
 
 社交辞令みたいに、彼は言った。昨日みたいに緊張した様子はない。
 しいていうなら、少し気まずそうではある。

「元気だよ。昨日休んだ理由が分からないくらいに」

551: 2014/02/24(月) 01:13:24 ID:ZiEnjXL2

「なあ、ヒメ……その子、彼女?」

 彼はヒナの方をちらりと見た。ヒナは俺の体の影に隠れて自分の姿を隠した。

「まあ、うん」

「まあってなに?」と、彼女は小声で俺を非難した。

「そっか」

 彼は何か言いたげに唇をもごもごさせていた。

「こんなこと言うべきじゃないんだろうけど、俺は、てっきり……」

「てっきり?」

「……いや」

 まあ、何が言いたいのかは、分かっていたけど。
 俺はべつに、あいつが好きだったわけじゃない。

 ただ悲しかっただけだ。

552: 2014/02/24(月) 01:14:03 ID:ZiEnjXL2

「俺たちは帰るよ」

 俺がそう言ったとき、彼は逃がさないとでも言うみたいに言葉を続けた。

「なあ、おまえはさ、どうして、俺たちを避けるようになったんだ?」

 言葉を失う。どうして、と訊かれても答えようがない。
 俺はただ、実感しただけなのだ。

「べつに、たいした理由じゃない。ただ、なんとなく……」

「……なんだよ、それ」

 彼は少し困ったような顔をした。

 いつまでも一緒にいられない。どれだけ居心地がよくても、一緒にいるのが楽しくても。
 形は変わる。蝉だって羽化する。たぶん俺は抜け殻だ。

 俺はいらない。そう感じた。そう思ったら、もう一緒にはいられなかった。たとえ思い込みだったとしても。

553: 2014/02/24(月) 01:15:09 ID:ZiEnjXL2



 帰り道の途中で、部長に遭遇した。
 彼女はヒナの姿を見て、ちょっと意外そうな顔をした。

 俺はその視線を取り合わず、世間話のつもりで言葉を投げかける。

「部活は、出ないんですか?」

「それはこっちの台詞です」

 と部長は至極まっとうな返事を寄越す。 

 こうして話してみると、どうして部活に出るのを避けていたのか、その理由が自分でも分からなかった。

554: 2014/02/24(月) 01:15:44 ID:ZiEnjXL2

「あんまりサボってばかりいると、クビにしますよ」

 部長は大真面目な顔で言った。
 それから溜め息をついて話を続ける。

「わたしは用事があるので、部活はお休みしたんです」

「そうだったんですか」

「もう行きますけど、近頃事故が多いみたいですから、ふたりも車に気を付けて帰ってくださいね」

「横断歩道は手を挙げて渡ることにします」

 彼女はきょとんとしてから、少しだけ笑った。少しだけだったけど。それは嬉しかった。
 半径十五メートルの現実。

555: 2014/02/24(月) 01:16:19 ID:ZiEnjXL2



 バスを降りて住宅の間を縫うように歩く。

「暑いね」とヒナは言う。

「すごくね」と俺は頷いた。

 自転車に乗った小学生くらいの男の子たちが、家々の隙間を楽しげに走り抜けていく。
 コンビニにでも行くのか。もっと遠くまでいくのか。目的地は分からない。

 でも、楽しそうだった。

「そういえばさ、ヒメ」

「なに?」

「屋上で、初めて会ったときにさ、言ってたよね。幼馴染の女の子と、結婚の約束をしたことがあるって」

「……」

 言わなきゃよかったな、と俺は思った。

556: 2014/02/24(月) 01:16:51 ID:ZiEnjXL2

「それってさ……」

 ヒナはそれから少し、何かを言いあぐねていた。ほんの短い時間。
 そのわずかな隙間を縫うみたいな、鳴き声。

 俺とヒナは、揃って鳴き声の聞こえた方を振り返った。

 白い猫。

「シロだ」

「シロ?」

 思わずあげた声を、ヒナが繰り返した。

「うん。近所の公園で見かける猫」

「見たことない」

「あれ、そうだっけ?」

 付き合い始めてから、シロを見かけたことはなかったんだっけか。
 猫はこちらをちらりと見てから、俺たちの横を素早く駆け抜けていった。
 通りの向こうの児童公園に、姿が消える。

557: 2014/02/24(月) 01:17:28 ID:ZiEnjXL2

「綺麗な猫」

「うん。たぶん公園にいる」

「どうして?」

「公園が好きなんじゃないか。いつもいるんだよ」

「ふうん」

「寄っていく?」

「うん。ちょっと見てみたい」

 俺たちはシロの姿を追いかけて、公園へと向かった。

558: 2014/02/24(月) 01:18:49 ID:ZiEnjXL2



 公園の入り口で、ヒナは立ち止まった。呆然と立ち尽くすみたいに。

「どうしたの?」

「遊具、ないね」

 引っ越してきてから、この公園の中を覗かなかったんだろうか。

「何年か前に、撤去されたんだよ」

「なにかの残骸みたい。……前は、たくさんあったのに」

「うん。何もない場所になった。ただの広場みたいだ」

 ……“前は”?

 俺がその言葉に引っ掛かりを覚えるより先に、ヒナは公園に足を踏み入れた。
 だからその疑問も、宙ぶらりんのままほったらかしになった。
 さっきヒナが口にしかけた疑問と同じように。

「誰かいるね」

 ヒナの言葉に、俺は視線を前に向ける。ベンチに、少女が座っていた。

559: 2014/02/24(月) 01:19:37 ID:ZiEnjXL2

「こんにちは」と少女は言う。

「こんにちは」と、ヒナが少し緊張した感じで答えた。俺は頭を下げる。
 少女の膝の上に、シロが丸くなっている。

 思わず溜め息が出る。

「どうしたの?」

 ヒナは耳聡く俺の溜め息を聞きつけて、その理由を聞きたがった。

「いや、シロと仲良くなるのは、大変だったんだよ。カツオ節まで使ってようやくなついてくれたんだ。
 それなのに、なんかこう、簡単そうに膝に乗ってるとさ、虚脱感っていうか、徒労感っていうか」

「ばかみたい」とヒナは俺の憂鬱を一蹴した。たしかにバカみたいだ。

560: 2014/02/24(月) 01:20:23 ID:ZiEnjXL2

 女の子は困ったみたいに笑った。
 上手な笑い方をする子だな、と俺は思った。小学生くらいに見えるのにとても上手な。
 真似できない。尊敬に値する。

 見覚えがある。この辺りの子なのかもしれない。
 
「お兄さんたちは、学校帰り?」

「それ以外にどんなふうに見える?」

 皮肉っぽいよ、とヒナが俺の言葉を咎めた。そういうつもりでもなかったのに。
 少女はちょっと笑った。それから意味ありげに呟く。

「仲、いいんだね?」

 ヒナがさっと頬を赤らめた。子供にからかわれて顔を赤くしている。
 なんてかわいい奴なんだ、と俺は素直に感動した。バカみたいに。

561: 2014/02/24(月) 01:22:03 ID:ZiEnjXL2

 そうしたどうでもいいような仕草には反応もせずに、少女は言葉を続けた。
 当たり前みたいな顔で。

「ねえ、最近、変わったこと、起こらなかった?」

「変わったこと?」

「うん。なんでもいいんだけど」

「特には、何も」

「じゃあ、うれしいこととか」

 少女は俺の顔をまっすぐ見ていた。俺はその目をまっすぐに見返した。
 奇妙な質問。

「ああ、あったな」と俺は言った。
 
 ヒナが俺の顔を見ている気がした。だからこそ俺は自信を持って頷くことができた。
 だって、それは本心なのだ。

「あったよ。うれしいこと」

 そうなんだ、と少女は笑う。でも、どうしてだろう?
 彼女の顔は悲しそうに見えた。

562: 2014/02/24(月) 01:23:03 ID:ZiEnjXL2

 少女は、それからしばらく黙り込んだまま、猫の背中を撫でていた。
 猫は気持ちよさそうに唸る。物寂しい夏の日暮れ。]

 涼やかな風が、公園の中を吹き抜ける。

「……そうなんだね。うれしいことが、あったんだね」

 不意に、彼女の顔が、歪んだように見えた。
 一瞬のことだ。気のせいだったのかもしれないけど。

「ねえ、わたし、いいかげん飽きてきたんだ。ただ眺めてるのにも、退屈してきたんだ」

 だからね、と彼女は言う。

「――思い出させてあげようか?」

 凍てついたような硬質な声。
 その響きが、切り裂いた。

563: 2014/02/24(月) 01:24:50 ID:ZiEnjXL2



 眩暈。奇妙な感覚。俺を取り巻く世界のすべてが変貌する。
 何かが入り込んでくる。"降ってくる"。実感として。何かが。

 俺はそれに逆らえない。何かを挟み込む余地がない。

 作り変えられている。光が消える。太陽が沈む。時間が流れる。
 巨大な変化の中に取り残されている。

 変わるんじゃないよ、と声が言う。思い出すんだよ、と。
 それは知っていたはずのことだった。忘れていただけでずっとそこにあったのだ。

 白く染め上げられた世界。やさしい世界。丸い、棘がない世界。俺を傷つけない世界。
 求めていたもの。

 けれど、人は摩擦がない世界では生きられない。
 誰かが泣いている。その声が半径十五メートルの現実を切り裂く。

 誰かがどこかで春を売っている。

564: 2014/02/24(月) 01:26:45 ID:ZiEnjXL2

引用: こんな日が続けばいいのに