568: 2014/02/25(火) 00:54:58 ID:TTHSZumw


【SS】こんな日が続けばいいのに【1】
【SS】こんな日が続けばいいのに【2】
【SS】こんな日が続けばいいのに【3】
【SS】こんな日が続けばいいのに【4】
【SS】こんな日が続けばいいのに【5】

◇04-01[Come Down]


 ぐらりという強烈な眩暈。一瞬の浮遊感の後、視界が暗転した。
 ひっくり返った世界は、一瞬、無音の停滞に支配される。

 直後、白く染まった。

 氾濫した光が目を潰す。吸い込まれるように、俺の意識は俺の体へと戻っていく。

 眩い光の束の中から、俺は意味を取り戻す。物と意味とのつながりを取り戻す。

「ヒメ、大丈夫?」

 声。訊ねてきた声。誰の声だ? ヒナだ。

 ヒナの声だ。

「ヒメ?」

 俺の意識は現実に引き戻される。
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569: 2014/02/25(火) 00:55:29 ID:TTHSZumw

 俺たちは、夏の日暮れの公園に立ち尽くしている。
 さっきまでと同じように。俺がいる。隣にヒナがいる。
  
 目の前には白猫を抱えた少女がいる。

 俺は彼女のことを知っている。
 その事実に、愕然とする。

 彼女はにっこりと笑う。

「――思い出した?」
 
 何を、という疑問すら湧いてこない。
 
「……ヒメ?」

 あっけにとられたままでいる俺の顔を、ヒナが覗き込む。

570: 2014/02/25(火) 00:57:32 ID:TTHSZumw

 手のひらを俺の顔の前にかざす。そして軽く振って見せる。

「どうしたの?」

 俺はうまく返事ができなかった。なんでもない、というべきだった。
 でも言えなかった。唐突に、すべてが変わった気がした。
 一瞬の変貌。まるですべての存在が、良く似た別の何かと入れ替わったみたいに。

「ヒメ?」

 ヒナは俺の手を引いて、体を揺さぶった。しっかりして、というみたいに。
 でも無駄だった。"信じられない"のだ。

 不意に、鋭い音が響いた。何かが破裂するみたいな。

 ヒナは、何が起こったのか分からない、という顔をした。

 一瞬の静寂の後、自分が取った行動を認識する。 
 俺は彼女の手を弾いたのだ。

571: 2014/02/25(火) 00:58:14 ID:TTHSZumw

 ヒナはきょとんとした顔でこちらを見た。
 表情の変化さえほとんどない。今起こったことをうまく消化できていないように。

 でも俺は彼女の手を拒んだのだ。

「……ヒメ?」
 
 数秒経ってから、ヒナは不安げに表情を暗くさせた。
 なぜ、手を拒んだりしたんだろう。自分でも、よく分からない。

 それは俺の意思じゃない。だって俺は、彼女の手を掴みたかったのだ。
"にもかかわらず"。

 俺はベンチに座ったままの少女に目を向ける。
 彼女は笑っていた。

 呼吸がうまくできない。心臓が早鐘を打つ。目が潤む。頬が熱くなる。俺は動揺している。
 
 ヒナは俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。
 そのくらいのことは、俺にだって分かる。

572: 2014/02/25(火) 01:00:14 ID:TTHSZumw

 沈黙。蝉の鳴き声。もうすぐ日は沈む。時間は絶えず流れている。 

 ヒナは、何かを覚悟したみたいな顔で少女を振り向いて、訊ねた。

「何をしたの?」

 咎めるような口調。まるで俺を庇うみたいに、ヒナは少女との間に立った。
 不意に鋭くなった空気を察してか、白猫は少女の膝の上から逃げ去っていく。

 彼女はそれをぼんやりと見送った。どこか、寂しそうに見える。

「何をしたように見える?」

 どうでもよさそうに、彼女はヒナの問いかけに応じた。
 彼女は俺のことを知っている。俺は彼女のことを知っている。

「何もしてないみたいに見えたよ」とヒナは言った。

「でも、何かをしたんでしょう?」

 確信のこもった声。少女はおかしそうにくすくす笑う。

573: 2014/02/25(火) 01:01:03 ID:TTHSZumw

「少し、思い出させてあげただけ」

「思い出させた? 何を?」

「あなたには関係ない」

 少女はそう断言してから、ちょっと考え込んだ。「いや、どうだろう?」というふうに。
 俺の体はようやく正常な感覚を取り戻し始める。

「やっぱり、関係あるかも。でも、あなたには分からないことだから」

 ヒナは口籠った。顔が見えないから分からないけど、彼女はきっと、怒っている。

「そんなに怒ることでもないよ。ちょっとした、悪戯みたいなものだから」

「ねえ、人を傷つけたら、それは悪戯では済まないんだよ」

 ヒナのそんな声を、俺は初めて聞いた気がした。

「それは悪戯じゃない。暴力なんだよ」

574: 2014/02/25(火) 01:01:53 ID:TTHSZumw

 その言葉を聞いた少女の顔から、笑みが失われた。
 興が削がれたとでも言いたげな、つまらなそうな表情。

「そうだね」と、彼女はヒナの言葉に頷く。

「それは本当に、そう思うよ」

 言いながら、少女はベンチから立ち上がり、心底うんざりしたというふうに溜め息をつく。

「わたしはもう行くね」と言って、彼女は公園を後にした。

 残された俺たちは、起こった出来事をうまく消化できずに立ち尽くす。
 俺は自分の身に何が起こったのかわからなかったし、ヒナも俺の身に何が起こったのか分からなかった。

 ただ、何かが起こった。

「大丈夫?」

 ヒナは俺の顔を見上げた。
 俺は静かに呼吸を整える。

「うん。……ありがとう」

 彼女は首を横に振る。「いいよ」というふうに。

575: 2014/02/25(火) 01:03:31 ID:TTHSZumw

 ヒナの態度はさっきまでと変わっていない。
 寂しげな公園の風景も、太陽の熱も、ぬるい夏の風も。

 なにひとつ、さっきまでと変わっていない。

「ヒメ、帰ろう?」

 ヒナは言う。耳に馴染んだ声。彼女と一緒に帰るようになってから、もう一月が経つ。
 それなのに、彼女の声を遠く感じた。

「帰ろうよ、ヒメ」

 彼女は、俺の手に向けて、怖々と、自分の手を伸ばした。
 指先が触れる。

 今度は弾かなかった。それで彼女は、ほっとしたような顔になる。
 不安げな顔、潤んだ瞳。その緊張が少しだけ和らぐ。
 
 俺は、彼女の手を弾きそうになるのを、必氏にこらえていた。

576: 2014/02/25(火) 01:05:17 ID:TTHSZumw

 もう一度、深呼吸をして、息を整える。
 目を閉じて、息を吐き出す。落ち着け、と俺は自分に言い聞かせる。

 落ち着け。冷静になれ。

 それで少しだけ、さっきまでの暴力的な混乱は静まってくれた。

 ヒナは俺の手を柔らかく引き寄せる。俺の顔を不安げに見上げる。
 目が合うと、彼女はそっと目を伏せて、自らの体を寄せてきた。

 制服の生地越しの感触なのに、それは柔らかであたたかだった。
 時間が経つにつれて、徐々にそのぬくもりを強く感じるようになる。

 彼女は何も言わずに、俺の首元に頬を寄せた。

577: 2014/02/25(火) 01:06:11 ID:TTHSZumw

「帰ろうよ、ヒメ」

 声は震えていた。心配している。たぶん。
 彼女はどうして俺のことを好きになったんだっけ。

 彼女の髪からは爽やかな匂いがした。匂い。ちゃんと感じる。
 それは柔らかに俺の鼻孔をくすぐる。彼女は俺の背に腕を回す。

 心地よいぬくもり。

「……うん」

 やっとの思いで返事をする。地面が震えているような気がした。
 この場に俺を繋ぎとめていてほしかった。結び付けていてほしかった。"だれかに"。

「ヒナはさ」

「……なに?」

「やさしいね」

「……バカみたい」と彼女は言った。苦しげに。

 ヒナはやさしい。嘘みたいに。夢みたいに。

578: 2014/02/25(火) 01:07:48 ID:TTHSZumw



 家の前までついてから、ヒナはまだ何か言い損ねているような顔をした。
 もっと伝えたいことがあるのだ、という顔。

「どうしたの?」と俺は促す。彼女はもどかしげな表情で俯く。
 何かを言いたいのに、どう伝えればいいのか、分からない、という表情。

 俺は彼女の言葉を待つ。

 彼女の気持ちは、なんとなく、分かるような気がした。

 伝えたいことはたしかにあるのに、言葉が上手く出てこない。
 湧きあがるのは、不安と、焦りと、自己嫌悪と、八つ当たりみたいな憂鬱。

 自分の姿を見ているみたいだった。

 言葉がまとまらなくて、発した言葉では足りない気がして。
 だからどんどんと言葉を足していく。でも、そのたびに説得力がなくなっていく。
 自分の言葉が信用できなくて、目の前に立つ人の表情がどんどん退屈そうに思えてきて。

 もどかしくて苦しい。つらくて、悲しい。
 そんなことの繰り返しが嫌になったから、俺は"話すのをやめた"。"書くのをやめた"。

579: 2014/02/25(火) 01:09:36 ID:TTHSZumw

 ヒナは、それでも言葉を吐きだそうとしていた。
 健気に思えるほど切実な表情で。見ていて泣きそうになるくらい、必氏に。

 言葉を寄せ集めていた。でも、本当は彼女にだってちゃんと分かっているはずだ。
 どれだけ言葉を寄せ集めたって、足りないのだ。

「好きだよ」と彼女は言った。

「それだけなんだよ」

 泣きだしそうな、苦しげな顔。絞り出すような、掠れた声。

「だから、そんな顔しないで」

 俺は今、どんな顔をしているんだろう。
 ヒナはどうして、こんなに必氏そうに話すんだろう。

 こんなに近くにいるのに、俺と彼女との間に、壊せない壁があるみたいな、そんな気がした。
 見えない壁。越えることのできない断絶。その断絶の原因は、きっと俺にある。

 ……壁は最初からあったのだ。忘れていただけで。
 確信めいた実感が、俺の思考を止める。壁はあった。忘れていただけで。気付かなかっただけで。

580: 2014/02/25(火) 01:10:09 ID:TTHSZumw



 ヒナを送った後、俺は帰路を歩きながら、何人かの人々について考えた。
 
 司書さんの言葉を思い出す。

 ――でも、わたしは知っているの。これから起こることを、既に知っている。 
 
 その言葉の意味を、俺は理解しつつある。

 まるで現実に起こったことみたいな、未来の記憶。
 瞼の裏側に焼き付いた景色や、耳の奥で耳鳴りのように響き続ける言葉と声。

 ――思い出した?

 頭の中で、誰かが訊ねた。
 思い出したよ、と俺は答えた。

 夢の中を歩いているような気がする。

581: 2014/02/25(火) 01:13:03 ID:TTHSZumw



 夕食を終えた後、俺はひとりで公園へと向かった。
 辺りは暗い。道を照らすのは街灯と人家の明かり、それから頼りない月光。

 見慣れた景色。

 彼女は、居るだろうか?

 居るだろうという予感はある。ほとんど確信に近い、予感。

 今夜はやけに月が大きく見える。空を見上げると、遠くの空に飛行機の明滅。

 飛行機はどこかに向かう。 
 粒のような、赤い光点。

 夜空を見ていると、奇妙な不安を感じる。
 誰も傍にはいないのだと、実感させられる。

 夜の底を、俺はさまようみたいに歩いた。地面の感触が感じられない。
 現実的な手触りはある。感触がある。匂いがある。温度がある。音がある。光がある。それは分かる。
 たしかに、現実的な感覚。でも、その感覚を、俺は遠くに認識していた。

 壁越しの世界の出来事のように、認識していた。

582: 2014/02/25(火) 01:14:36 ID:TTHSZumw

 公園の入り口は、ぽっかりと開いた穴みたいに、俺を待っていた。
 入ってしまえばどこまで落ちていくのか分からないような、そんな穴。

 少女は、夕方と同じように、ベンチに座っていた。

「こんばんは」と彼女は言った。

「こんばんは」と俺も答えた。疲れ切ったみたいな声だった。自分のことだけれど。
 少し緊張しながら――俺は彼女の名前を呼んだ。

「……こんばんは、シロ」

 彼女はにっこりと笑う。
 いびつで異質な存在。奇妙な少女。流れ星。ランプの精。

 神様の使い。

583: 2014/02/25(火) 01:15:07 ID:TTHSZumw

「気分はどう?」

 シロは世間話みたいな調子で問いかけてきた。俺は間髪おかずに答える。

「あんまりいい気分じゃないな」

「どうして?」

「嘘だったからだよ」と俺は答えた。

「全部嘘だったからだ」

「……ちゃんと思い出したみたいだね」

 シロはベンチから腰をあげて、真正面から俺を見た。

584: 2014/02/25(火) 01:18:08 ID:TTHSZumw

「お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから」

 ちゃんと叶えてあげたんだよ、とシロは言った。

「それは、どうもありがとう」と俺は嫌味のつもりで言った。

「どういたしまして」とシロは皮肉を言った。

 ぬるい夜風に、シロの髪が舞う。月の光は、海中に差し込んだ太陽の光みたいに曖昧だ。

 彼女はくすくすと笑う。心底おかしそうに。嬉しそうに。楽しそうに。
 せせら笑う。

「――これで満足?」

 俺は、答えられなかった。何もかもが、意味を失ってしまっていた。
 全部偽物だった。

 嘘だったのだ。

585: 2014/02/25(火) 01:27:26 ID:TTHSZumw

「繰り返しているんだな?」

 確認のつもりで問いかける。シロは迷いなく頷く。

「そう。何度も、繰り返されてる」

「俺の都合とは無関係に?」

「そう、お兄さんの都合とは無関係に、世界は繰り返されてる」

「司書さんはそれを覚えてた」

「忘れたくないって言ってたから、叶えてあげたの」

「……ただ繰り返しているだけじゃない」

「そう、繰り返しの“ついで”に、お兄さんの願いを叶えてあげたの」

 俺が願ったこと。

「お兄さんは、“夢が見たい”って言ったんだよ。“自分がこうじゃなかったら”って世界を見てみたいって。
 だからわたしは見せてあげた。何か少しの違いで起こったかもしれない現実の世界を。
 でも、“現実には起きなかった出来事”を、お兄さんに見せてあげたんだよ。
 お兄さんの都合の良いように、世界を作り変えていたの」

 俺は、春を買っていた。

591: 2014/02/26(水) 02:14:06 ID:ChT37k9.



「全部が嘘だったわけだな」

 シロは何も言わなかった。
 沈黙は肯定だ。

「どうりで、誰も彼も、俺を好きになった理由を言わなかったわけだ」

 アメも、千紗先輩も。

「理由なんてなかったんだ。分かってたことだ。そうだよ。俺のことを好きになるやつなんていない」

 月が空に浮かんでいる。
 飛行機が飛んでいく。

 澱むような夜の底。

「都合のいい夢だったんだ」

592: 2014/02/26(水) 02:14:44 ID:ChT37k9.

 アメのことも、先輩のことも。
 考えて見れば、身に覚えのないことばかりだった。

 自分が何か働きかけたわけでもないのに、気付けば事態が動いていた。

 俺は自転車の鍵を探すのを手伝ったりしなかったし、部活に顔を出して誰かと話したりしなかった。
 納得のいくことばかりだ。

 どうりで、俺は、アメの言葉を信用できなかったはずだ。
 部長に本心を伝えることが困難だったはずだ。

 変わっていたのは状況であって、俺自身じゃなかったんだから。
 
 ヒナの存在でさえ……。

593: 2014/02/26(水) 02:15:21 ID:ChT37k9.

「そうだよ。お兄さんは、わたしの力を借りて、都合の良い夢を見ていたの。
 お兄さんのことなんて好きでもなんでもない女の子に、無理矢理好意を抱かせていたの。
 不安だったから、不満だったから、自分だけの為に、いろんな人を利用していたの」

 ただ自分が満たされるためだけに。

「これで満足なんでしょう? ほしかった言葉も、してほしかったことも、ちゃんとしてもらえたでしょう?」

 だから、とシロは言う。

「――だから、もっと苦しんでよ」

 彼女は俺をまっすぐに見つめた。憎んでるみたいな目で。

 身じろぎもできなかった。

594: 2014/02/26(水) 02:15:58 ID:ChT37k9.

 シロは静かに歩き始める。まっすぐにこちらへと向かってくる。
 そして、俺のことなんて見向きもせずに、そのまま公園の出口へと向かった。

 何も言わずに俺を横切って。
 
 待ってくれ、と俺は言おうとした。
 言い訳をしようとしたのかもしれない。質問をしようとしたのかもしれない。

 でも、言葉は何も出てこなかった。

 自分が何を言いたいのか、何を言うべきなのか、何を言えるのか、何を言わなければならないのか。
 まったく分からなかった。

 謝ればいいのだろうか? ……誰に?

 とにかく俺にはもう分からなくなってしまった。

595: 2014/02/26(水) 02:16:43 ID:ChT37k9.

 シロはいなくなってしまった。

"だれか"に傍にいてほしい気分だった。

 手を握ってほしかった。大丈夫だよ、と言ってほしかった。俺をここに縛り付けていてほしかった。
 そうしてもらわないと、どこかに弾き飛ばされてしまいそうな気がした。
 
 深い穴の中に吸い込まれてしまいそうな気がした。

 大丈夫だよ、と言ってほしい。ちゃんと分かっているから、と。
 不安がる必要はない、と。全部大丈夫だから、と。誰かに言ってほしい。

"だれでもいいから"。

 とにかくだれでもいいから、傍にいてほしかった。

596: 2014/02/26(水) 02:17:23 ID:ChT37k9.

 夕方、この公園で触れ合ったヒナのぬくもりを思い出す。

 今、俺はヒナを求めている。切実に。

「大丈夫だよ」と彼女は言ってくれるだろう。
「何も心配しなくてもいい」とも言うだろう。

「あなたが必要」と、「わたしはあなたを必要としている」と、何度も繰り返すだろう。
「あなたがいてくれてよかった」と。

「あなたのことが好き」だと。

 彼女はきっと本当に俺を好きでいてくれる。俺が求めたとおりに。

 でもそれは、都合の良いまやかしなのだ。

597: 2014/02/26(水) 02:18:11 ID:ChT37k9.

 参ったな、と俺は溜め息をついた。
 どうしようもない。これはたしかに苦しい。
 
 だって逃げ場所がないのだ。
 忘れていれば騙されたままでいられたのに。

 幸せな夢は、やっぱり夢だったと、思い知ってしまった。

 他人まで巻き込んで、俺は自分自身を慰撫していた。
 自己憐憫。

 こんなことになってしまったら、俺にはもうどうしようもない。

 俺の都合とは無関係に繰り返される世界。

 その中で、俺にとって都合のいいことが起こり続ける。
 つまり、どれだけ良いことが起こっても、それは"本当"じゃないってことだ。
 シロが俺に見せている、都合の良い夢ってことだ。

 どこまでが夢でどこまでが現実なのか、もう分かったものじゃない。
 本当に困った。……現実の自分が、どういう境遇にあったのか、既に思い出せない。

598: 2014/02/26(水) 02:18:53 ID:ChT37k9.



 家に帰ると、妹が出迎えてくれた。

「おかえり」と彼女は笑う。綺麗な笑い方。受け入れてくれている。

「ただいま」と俺は言う。

「どこに行ってたの?」

「公園」

「何しに?」

「ちょっと散歩」

「病み上がりなんだから、無理しちゃだめだよ。また体調崩しても知らないんだからね」

「うん」

599: 2014/02/26(水) 02:19:36 ID:ChT37k9.

「……なにかあった?」

 妹は、心配そうな顔で俺を見る。俺の感情をすぐに察知する。
 気付いてくれる。

「いや、何もない」

「……コーヒーでも淹れようか?」

「うん。頼むよ」

「ちょっと待ってて」

 妹はキッチンに向かって、コーヒーメイカーを準備し始める。
 俺はリビングのソファに深々と腰を下ろし、溜め息をついた。

 リビングを支配する、コポコポという陳腐な音。かぐわしいコーヒーの香り。

 なあ、シロ、どこまでが嘘なんだ?
 少なくとも、俺の不安をすぐに察して、やさしくしてくれる理解者なんて存在は……ちょっと、都合がよすぎる。

600: 2014/02/26(水) 02:20:35 ID:ChT37k9.

 幸せな夢を見ると、嫌な気持ちになる。タイタンが、言っていた。
 平気なのか、と彼は俺にそう訊ねてきた。

 平気じゃないよ、と俺は答えた。平気なんかじゃない。いつもさめざめと泣くんだ。

 今だって泣きたかった。
 幸せな夢も、さめてしまえば、もはや悪夢的だ。

 でも泣くことはできない。だってこれは俺が望んだことで、それによって歪められた人々がいるのだ。
 泣いてしまうのはあまりに身勝手だ。

「お兄ちゃん、どうしたの?」
 
 無音の部屋の中、時間はたしかに流れ続ける。妹は二人分のコーヒーを淹れて、片方を俺に差し出す。
 俺は受け取る。

「ありがとう」と俺は言う。

「どういたしまして」と妹はくすぐったそうに笑う。

 都合がよすぎるんだ。

601: 2014/02/26(水) 02:21:49 ID:ChT37k9.



 夜、眠ると、朝が来た。何の意味があるんだろう。朝が来たところで、結局、なかったことになるのに。
 世界は繰り返されているのに。そのたびに、全部がなかったことになっているのに。

「あのさ、ヒメ、実は、言ってなかったことがあるんだけど」

 俺はヒナと一緒に登校していた。ヒナは相変わらずの調子だ。なにも変わらない。
 変わったのは俺だけだ。

「なに?」

「わたし、高校に入学するのと同時に、この街に引っ越してきたって言ったでしょ?」

「うん」

「それって、実は、戻ってきたんだよ。
 もともとこの街に住んでたんだけど、小学六年生のときに他の町に引っ越したんだ」

「……うん」

602: 2014/02/26(水) 02:22:32 ID:ChT37k9.

「だからね、たぶん、ヒメとわたし、小学生の頃、同じ学校に通ってたんだよ」

「そうなんだ」

「で、それで、なんだけど……」

「……」

「……やっぱ、なんでもない」

 どこか気恥ずかしそうな顔で、ヒナは言葉を止めた。俺は昔のことがよく思い出せない。
 ヒナが同じ学校に通っていた、なんて。もし昨日までの俺が聞いたら、びっくりして卒業アルバムでもめくっていただろう。
 
 でも、今聞かされたところで、わざとらしい。胡散くさい。
 都合がよすぎる。

 もっと苦しんでよ、とシロは言った。
 
 苦しめるために思い出させたのだとしたら、あいつは頭がいい。
 気を抜いたら叫び声をあげてしまいそうだ。

603: 2014/02/26(水) 02:23:10 ID:ChT37k9.

「……ヒメ?」

 ヒナは俺の顔を覗き込む。心配そうな顔で。

「なにか、考え事?」

 困ったなあ、という表情。

「……なんでもない」
 
 俺の答えに、納得していないような溜め息で、ヒナは応じる。

「何か心配なの?」

「……」

「大丈夫だよ」とヒナは言った。そして俺の手を握った。
 あたたかなぬくもり。本当は俺に与えられなかったはずの。俺が得るべきではないぬくもり。

「なにか話したいことがあったら話してもいいし、何も言いたくないなら言わなくてもいいよ」

 うん、と俺は頷きだけを返した。それ以上何かを言おうとしたら、余計なことまで言ってしまいそうだった。

604: 2014/02/26(水) 02:24:11 ID:ChT37k9.



 学校についてから、ヒナと別れ、教室に向かう。
 どうせなかったことになるんだから、もう学校に行く意味なんてないのに。

 俺が何をしたところで、世界は何度も繰り返されている。"俺の都合とは無関係に"。
 シロだってそう言っていた。俺だって、そう感じてる。

 たぶん、世界のどこかで劇的なことが起こってるんだろう。
 そしてループが始まったのだ。俺は偶然、それに巻き込まれている。

 巻き込まれた"ついで"に、自分を慰めている。
 
 教室の入り口で、誰かとぶつかりそうになる。

「あ、ごめんなさい……」

 とっさに言葉を失ったのは、驚いたからじゃなくて、なんとなく、そんな予感があったからだ。

605: 2014/02/26(水) 02:24:50 ID:ChT37k9.

「……アメ」

 俺の声に、彼女はきょとんとして、教室のなかを振り向いた。
 何を見ているのだろう、と思って、窓の外を見ているのだと気付く。「雨」と言ったと思ったんだろう。
 あたりまえだ。この世界で、俺は彼女に変なあだ名なんてつけてない。
 
「降ってないよ?」

 彼女はちょっと困った顔で、俺を見上げた。

「……ああ、うん」

 どうでもよかった。ただ、彼女の仕草のひとつひとつが、俺の心をぎりぎりと締め上げる。
 彼女は俺のことを好きだと言った。

 でも、それはシロの力があったからで。

 何もなければ、彼女はこんなふうに、どうでもいいクラスメイトの一人としてしか、接してくれない。
 きっと、ヒナも。

606: 2014/02/26(水) 02:25:56 ID:ChT37k9.

「なんだか、落ち込んでる顔してるね?」

「……いや」

「いや、してるしてる。しかたないなあ」

 彼女は制服のポケットから飴玉をひとつ取り出した。プリン味のチュッパチャップス。

「あげよう。わたしのヘソクリ。朝から暗い顔してると、一日がしんどくなるだけだよ」

 彼女はにっこり笑ってから、俺の横を通り抜ける。
 ありがとうを言う暇もなく、去っていった。

 後ろから、誰かと誰かが笑い合う声が聞こえる。
 
 俺は手のひらの中に載せられた飴を見つめる。
 それをポケットに入れて、自分の席を目指す。

 都合がよすぎたんだ。

607: 2014/02/26(水) 02:28:46 ID:ChT37k9.
つづく

610: 2014/02/27(木) 01:01:16 ID:kQrRYKiM



 昼休み、ヒナが俺を教室に迎えに来た。

 頭がぼんやりしている。覚醒しきっていない。現実に生きていない。
 俺は何をやっているんだろう?

「ヒメ、今週の土日、何か用事ある?」

 俺たちは屋上で食事をとっている。

「……いや、いつも通り」

「いつも通りって?」

「暇してる」

「普段、土日どんなことしてるの?」

「……本読んだり、映画観たり」

611: 2014/02/27(木) 01:01:53 ID:kQrRYKiM

「映画?」

「うん」

「ふうん。ヒメ、映画好きだよね。映画館とか、行ったりするの?」

「まあ、ときどきね」

「最後に観に行ったのは何?」

「……なんだったかな」

 俺は思い出せないふりをした。ポケットの中には飴玉がひとつ。
 少し緊張したような調子で、ヒナは言う。

「じゃあ、最後に観たのは?」

 なんだったっけ。この世界では「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」のはずだ。
 でも、それは『事実』として記憶されているだけで、観たという実感は存在しない。

 それはシロによってつくられた記憶だ。ヒナと過ごした何週間かの記憶と同様に。

612: 2014/02/27(木) 01:02:26 ID:kQrRYKiM

「汚れた顔の天使」

「どんな映画?」

「二人の男がいるんだよ。片方はまっとうに生きて、片方は惨めに生きる。
 惨めさというのも度を越えると劇的に見えてくるもので……劇的だからこそ、氏ななきゃならなくなった」

「惨めに氏ぬの?」

「どうかな。まっとうな奴は最後までまっとうに生きて、惨めな奴は、惨めかどうかは分からないが、氏ぬしかなかった」

「……それがどうしたの?」

「悲しくないか?」

「少しね」

613: 2014/02/27(木) 01:03:12 ID:kQrRYKiM

「そうだ、そういえば、もうすぐ夏休みだね」

「……うん」

「ねえ、ヒメ、知ってる?」

「何を?」

「夏休みに入ってすぐに、商店街でお祭りがあるの」

「うん。知ってる。何度も行ったよ」

 べつにたいした意味をこめて発した言葉じゃなかった。
 それなのに、その言葉の意味に気付いて驚いた。急に悲しくなった。

 ヒナはごく一般的な意味だと思ったのだろう、何気なく言葉を続ける。

「そっか。……ねえ、お祭り、一緒に行かない?」

 俺は口籠る。

614: 2014/02/27(木) 01:04:09 ID:kQrRYKiM

 俺の胸を満たしている気持ちを何と呼べばいいのだろう?

 空虚感? 罪悪感? 徒労感? 
 どれも間違っている。どれも合っている。もう何もする気が起きない。

 俺は今どこに居るんだろう。この世界はどうなっているんだろう。
 いろんな疑問が湧き出てくる。いったいどうしてこの世界は繰り返されているんだろう。

 でも思考はすぐに止まってしまった。

 現実が夢に取り込まれてしまったのだ。
 何もかもがあやふやで、相対的で、現実感がない。

 夢の中にいる。

615: 2014/02/27(木) 01:05:03 ID:kQrRYKiM

 記憶。
 
 ――わたしの中で、チュッパチャップスはコーラとプリンが双璧なの。

 ――えっと、ほんとにありがとね。助かったよ。帰れないかと思って泣きそうだったんだ。
 
 ――きみからすれば不思議だろうけど、わたしからしたら、ぜんぜん不思議なんかじゃないんだよ。

 ――もしそうなら……嬉しい、かも。

 声。

 ――あれは嘘です。

 ――……嘘です。嘘というのが、嘘です。

 ――そう、だね。……いまさら、だね。

 ――なにはともあれ、今は一緒にいます。
 
 あれは夢だ、と俺は自分に言い聞かせる。でも、それは現に起こったことでもある。
 この混乱を、自分の中でどう取り扱えばいいのか、もう分からない。

616: 2014/02/27(木) 01:05:48 ID:kQrRYKiM

 現実で聞いた言葉。
 
 ――ヒメは、もっと正直に、泣いたり笑ったりしていいんだと思う。誰かを、好きになってもいいんだと思う。
 
 ――誰もそのことを否定したりしない。もし誰かが否定したとしても、わたしは否定しない。

 ――夏って、いいよね。

 ――……ひょっとして、無理してる?

 ――不安がることなんて、なにひとつない。当たり前みたいな日々が、続いていくだけなんだよ。

 心地よい言葉。ぬくもり。態度。
 誰かと一緒にいたという事実。感覚。実感。

 そういうものが全部抜け落ちていく。
 優しい言葉の、ぜんぶがぜんぶ、惨めで、歪なものに感じられる。

 嘘は嘘でしかない。
 全身から気力というものが根こそぎ奪われていく。

 俺が望んだこと。

617: 2014/02/27(木) 01:06:40 ID:kQrRYKiM

「ヒメ?」

「……なに?」

「だから、お祭り。大丈夫? また、具合悪い?」

「……いや、大丈夫」

 大丈夫だよ、と俺は答える。ただ悲しいだけだ。それも、とても身勝手な悲しみだ。

「行こうか、夏祭り」

 繰り返しているんだな、と俺はシロに訊ねた。シロは肯定した。
 ということは、この世界は、俺にとって都合よく捻じ曲げられていたとしても、『現実』なのだ。

618: 2014/02/27(木) 01:07:29 ID:kQrRYKiM

 ヒナも、アメも、先輩も、みんな、『現実』の存在で、人物で、『妄想』なんかじゃない。
 都合のいい妄想に、俺が付き合わせていただけで。

 ヒナが俺を好きだというのは、都合よく捻じ曲げられた事実で。
 でも、この世界において、彼女は『事実』として、俺のことが好きなのだ。

 夢はさめて、安心感も、幸福感も消えてしまっていたけど。
 本当はもう投げ出して、どこか遠い場所に逃げ出したかったけど。

 どうするのが正しいのかは分からないけれど、彼女を拒むわけにはいかないと思った。

 それをしてしまったら、本当に身勝手だという気がした。

 ヒナは、俺の顔を見て、何か奇妙そうな顔をした。それでも返事は明るかった。

「――うん。いこう……楽しみだなあ」

 でも、すべてが白々しくて、刺々しくて、苦くて、曖昧で、意識を保っているのがつらかった。
 眠ってしまいたかった。

619: 2014/02/27(木) 01:10:40 ID:kQrRYKiM

『お兄さんは、"夢が見たい"って言ったんだよ。"自分がこうじゃなかったら"って世界を見てみたいって。
 だからわたしは見せてあげた。何か少しの違いで起こったかもしれない現実の世界を。
 でも、"現実には起きなかった出来事"を、お兄さんに見せてあげたんだよ。
 お兄さんの都合の良いように、世界を作り変えていたの』

 何か少しの違いで、起こったかもしれない現実。
 でも、起こらなかった出来事。

 ……結局のところ、俺が見てきた景色はなんだったのだろう?

 ただ、世界は繰り返されている。シロがどういうつもりなのかは分からない。
 いつまで繰り返されるんだろう?

 世界が繰り返されているうちは、俺もまた、ずっと同じことを繰り返すんだろうか。
 嘘だと分かり切った幸福な夢を見続けるんだろうか?

620: 2014/02/27(木) 01:12:19 ID:kQrRYKiM



 夏祭りは賑わっていた。でも、俺はそうであろうことを知っていた。

 人はごった返す。誰かと誰かが待ち合わせをしている。
 人々は隣を歩く人と笑い合いながら夜店を冷やかす。

 囃子の音がどこかから聞こえる。仮設ステージからバンドの演奏が聞こえる。
 子供の泣き声。救急車のサイレン。

 ラムネやかき氷の味だって思い出せる。

 既視感だらけの景色の中で、浴衣姿のヒナは、いっそう新鮮に思えて。
 そのせいで、俺の罪悪感は更に強まった。

「どうかな?」

 と、照れたみたいにヒナは訊ねてきた。

「いいと思うよ」と俺は照れもせずに答えることができた。
 どうせ、もうすぐなかったことになるんだ。そう思うと、どんなことだって言えた。
 ちょっとした笑顔だってすぐに作ることができた。

621: 2014/02/27(木) 01:15:43 ID:kQrRYKiM

 ヒナは最初、俺の態度にちょっと怪訝そうな顔をしていた。
 でも、たぶん、祭りの熱気のせいだと解釈したんだろう。
 何も訊いてこなかった。

「人がたくさんだね」

「うん。はぐれそうだな」

「……手、つないでもいい?」

 俺は手を差し出した。

「ありがとう」とヒナは言った。

 日が落ちて、辺りの喧噪は強まっていく。
 騒々しい音に、自分の意識が吸い込まれていくような錯覚。

622: 2014/02/27(木) 01:16:45 ID:kQrRYKiM

 自分をこの場に繋ぎとめていたくって、俺はヒナの手を強く握った。

「どうしたの?」

 びっくりしたみたいに、彼女はこちらを見る。
 俺はすぐには、答えられなかった。

「……いや、少し悲しくなっただけだよ」
 
「せっかくのお祭りなのに?」

「……ごめん」

「……楽しくない?」

「楽しいよ」

 ヒナの手のひらは暖かい。ヒナの笑顔は嬉しい。
 はしゃいだり、拗ねたり、怒ったり、笑ったり、落ち込んだり、ヒナの仕草は想像がつかない。
 耳に掛かった髪を指先で後ろに流す仕草。

 通行人とぶつかりそうになったとき、さりげなく寄せられる体。そのとき不意に鼻をかすめる爽やかな匂い。

623: 2014/02/27(木) 01:18:16 ID:kQrRYKiM

 金魚すくいをするために屈みこむ仕草。網が破けてしまったときの、困ったような笑顔。
 サービスでもらったビニールの中の金魚を、顔の前にかかげて覗き込む、楽しそうな表情。

 シロはどうして、俺に苦しめと言ったんだろう。
 たしかに、俺がしていたことは、苦しんでしかるべきと言えるくらい、馬鹿げたものだったことかもしれない。

 でも、彼女にとって俺は、「願いを叶えてあげた大勢の中のひとり」くらいの意味しか持たないはずなのに。

 いずれにしても、と俺は思う。俺を苦しませようとして、俺の記憶を呼び覚ましたのなら、彼女のたくらみは成功している。

 綿あめが食べたい、とヒナは言った。どうせなかったことになるんだ、と俺は思った。
 金を使ったってなかったことになるんだ。だから支払いは、ほとんど全部俺が済ませた。

「いいの?」

「今日は特別だからね。それに、人におごったりするのって、気分がいいものだよ」

「ありがとう」

 どこか申し訳なさそうに、ヒナは俯いて、それでも表情は、うれしそうに見えた。

624: 2014/02/27(木) 01:19:41 ID:kQrRYKiM

 最初の自分が、どんな境遇にあったのか。それだけが思い出せない。
 アメのことも、先輩のことも、ちゃんと思い出せるのに。

 どうして、こんなことを願ったんだろう。

 苦しかったんだろうか。寂しかったんだろうか。つらかったんだろうか。 
 耐えられなかったんだろうか。現実を歪めてしまいたいくらい、悲しかったんだろうか。

 たとえどんな苦しみがそこにあったとしても。
 俺はそんなことを願うべきじゃなかった。

 どうして、俺は、そんな願いを叶えてもらったんだろう。

625: 2014/02/27(木) 01:20:26 ID:kQrRYKiM

 俺たちは、綿あめを食べ終えて、少し歩き疲れた体を休ませていた。
 飲み物を買って、道端に寄り、人の流れからはずれる。

「……ねえ、ヒメ」

 ヒナが言う。なに? と俺は首を傾げる。

「わたしね、いま、すごく楽しいよ」

「……そっか」

「うん。来てよかったって思う」

「それは、よかったな」

「ヒメが、居てくれてよかったよ」

 どこか懇願するような顔で、ヒナは俺を見上げた。
 分かってほしい、というような目。ちゃんと伝わるだろうか、という目。

「わたしの現実に、ヒメがいてくれて、良かった。
 そうじゃなかったら、きっと、こんな気持ちになることもなかったって思う」

「……」

626: 2014/02/27(木) 01:22:07 ID:kQrRYKiM

「ヒメは、楽しい?」

「楽しいよ」

 楽しい。それは嘘じゃない。幸せだ。嬉しい。
 だからこそ悲しい。

「それなら、よかった」

 ほっとしたように、ヒナは溜め息をついた。

「……今日は、すごく楽しい」

 ヒナは笑う。その笑顔は、いつもより、なんだかすごく大人びて見えた。
 綺麗に見えた。

「こんな日が、続けばいいのにね」

627: 2014/02/27(木) 01:23:27 ID:kQrRYKiM

 ふと、こんな考えがよぎった。

 ヒナだって、こう言っているじゃないか。
 こんな日が続けばいいと、ヒナだって言っているのだ。
 俺だって、そう思う。ヒナとこのまま、こんな日々を重ねていけたらいい。

 俺はたしかに、シロの力を借りて現実を歪めた。
 でも、その事実を、惨めさを、いびつさを引き受けてしまえばいい。

 そうして、このまま、ヒナと一緒に、何事もなかったみたいに、日々を重ねていけばいい。
 それは自分本位な考えだったけれど、とても良いアイディアのように思えた。

 でも、実行はできないのだろう。世界は俺の都合とは無関係に、繰り返されているんだから。

 それにしても、世界はどうして、繰り返されているんだろう?

628: 2014/02/27(木) 01:24:32 ID:kQrRYKiM

 不意に、ヒナが俺の手を軽く引っ張った。

「なに?」

「……あのね」

 ヒナの声は、いつもより小さかった。
 あるいは、雑踏の騒がしさのせいでそう聞こえただけなのか。
 
「あの……」

 彼女は顔を真っ赤にして、俺を見上げている。
 
「その、ね……」

 彼女は、何かを求めているのだろうか?
 仮にそうだとして――俺は、それに応える権利を持っているんだろうか?

629: 2014/02/27(木) 01:25:07 ID:kQrRYKiM

「……うー」
 
 俺が何も言わずにいると、ヒナは目を逸らして、拗ねるみたいな唸り声をあげた。
 かわいい子だ。

 たぶん、俺の望みどおりに。
 思わず俺は笑ってしまった。自分の惨めさを笑ったのか、ヒナの仕草を笑ったのか、分からない。

「……ヒメは、意地悪、だね」

 真っ赤に染まった頬。少し潤んだ瞳。ヒナの長い睫毛が、かすかに揺れている。
 声は、心細そうに震えている。

 不意に、たまらなく寂しくなって、俺はヒナの手を握った。そして彼女を抱きしめようとした。
 そうしないと、自分がばらばらに砕け散ってしまいそうな気がした。

 でも、そんな俺をせせら笑うみたいに、景色は歪む。

 ――時間が来たのだ。

630: 2014/02/27(木) 01:25:52 ID:kQrRYKiM



 眩暈。
 穏やかな、眩暈。

 当たり前に訪れるはずの、眩暈。

 最後に見たヒナの表情が、歪む。

 誰かが俺に向けて言った言葉、誰かが俺にしてくれたこと。
 その全部が、俺の思考を掠めては通り過ぎ、消えていく。

 もっと苦しんでよ、とシロは言った。だとするなら、俺は次の世界でも、同じことを繰り返すんだろうか。

 もし、この記憶を、次の世界でも引き継いでいるのなら。
 たとえシロがどんなに都合の良い世界を作ったとしても、俺はもう誰の手も握らないでいよう。

 くだらない願い。音と光の洪水の中で、俺は自分が泣いているような気がした。

 どうしてこんなことを願ってしまったんだろう。
 ――どうして世界は、繰り返されているんだろう。

631: 2014/02/27(木) 01:31:17 ID:kQrRYKiM

引用: こんな日が続けばいいのに