886: 2014/03/19(水) 02:13:33 ID:xlx8U5Xo
【SS】こんな日が続けばいいのに【1】
【SS】こんな日が続けばいいのに【2】
【SS】こんな日が続けばいいのに【3】
【SS】こんな日が続けばいいのに【4】
【SS】こんな日が続けばいいのに【5】
【SS】こんな日が続けばいいのに【6】
【SS】こんな日が続けばいいのに【7】
【SS】こんな日が続けばいいのに【8】
◇05-01[Subhuman]
どうしても納得のいかないことがいくつかあったけれど、結局話は終わってしまっていた。
すぐに眠る気にはなれなかった。俺はリビングのソファでしばらく考えごとをしていた。
考えることはたくさんあったはずなのだ。それなのに、俺の思考の糸はすぐに途切れてしまう。
ソファのもたれかかっているうちに、よく分からなくなっていく。
いま手元に存在する感覚。
何を考えればいいんだろう。シロの思惑とか、現実のこととか、俺の願いのこととか。
司書さんのこととか、タイタンのこととか、氏んでしまう誰かのこととか。
俺には考えなければならないことがたくさんあるはずなのに。
頭が働かない。
887: 2014/03/19(水) 02:14:04 ID:xlx8U5Xo
シロは、なぜかわからないけど、三人目の願いを叶えたがっている。
タイタンは、司書さんを助けるために繰り返しをなくしてしまいたい。
俺は、どうしたいんだろう。
それが分からなかった。
そもそも疑問なのだ。
俺はシロに、"俺がこうじゃなかったら"の世界を見せてほしい、と頼んだらしい。
でも、よくわからない。どうしてそんなことを頼んだんだ?
どうして『見せてほしい』だったんだろう。
どうして『変えてほしい』じゃなかったんだろう。
俺にはよく分からない。どうして俺には元々の世界の記憶がなくなってるんだろう。
888: 2014/03/19(水) 02:15:01 ID:xlx8U5Xo
一から全部、誰かにちゃんと説明してほしかった。何が起こったのか。何が起こっているのか。
そして俺をちゃんと納得させてほしい。結局俺はどうすればいいんだ?
俺が、シロに願って、自分に都合の良い世界を作ってもらっていたんだとしたら。
やっぱり俺は、そんな世界を受け入れるわけにはいかない。
俺は眠ることが好きだし、眠って夢を見ることも好きだ。
でも、眠りにも倫理がある。都合のいい幻想を現実に持ち込んではいけない。
その程度の事、俺だって知っていたはずなのに。
どうして俺は、そんなことを願ってしまったんだろう。
今はもう、シロに願いを言った自分自身を殴りつけたくてしかたない。
シロに何を言われたって、こんな願いを受け入れるわけにはいかない。
帳消ししないといけない。
でも、シロは願いの取り消しを受け入れてはくれない。"誰か"を助けるために。
俺は、何をやっているんだろう。
889: 2014/03/19(水) 02:15:45 ID:xlx8U5Xo
目を瞑って、意識的に呼吸をする。上手に呼吸をするのはすごく難しいことだ。
いくらか戸惑いながら、俺は呼吸を徐々に整えていく。適切なテンポを取り戻していく。
そして瞼の奥に何かの景色を見出そうとする。
頬の表面は部屋の空気をたしかに感じている。
その冷たいような、ぬるいような曖昧な空気。
背もたれに体重を預け、全身から力を抜く。四肢を伸ばし、その重みを意識しようと努める。
そうしているうちに頭は段々とぼんやりしてくる。自分の意識が今そこにあるのか、分からない。
けれど感覚は、むしろ鋭敏になっていく。自分の呼吸の音が間近に聞こえる。
つけっぱなしの換気扇が鳴いている。鳴き声はごくささやかだったはずなのに、気付いてしまうとうるさくて仕方ない。
ふと目を開くと視界は青かった。暗闇なのだ。リビングに入ってきたとき、灯りをつけなかっただろうか?
つけなかったかもしれない。俺は右腕を前方に伸ばしてみる。その影すら見えない。
どうしてだろう、眠れなかった。
890: 2014/03/19(水) 02:16:49 ID:xlx8U5Xo
とにかく眠ってしまえばいいのに。朝が来れば、学校へいかなきゃいけない。
ここがどんなに奇妙な世界でも、その世界にルールというものがあるなら、従うべきなのだ。
そうしなければ弾かれてしまう。
俺はもう一度瞼を閉ざした。景色は青から黒へと静かに移行する。
けれど意識は眠りに落ちていこうとはしなかった。いつまでも現実に縋りついている。
気怠い焦燥が、頭の隅の方で疼きはじめる。
俺は眠らなければならない。
とにかく眠ろう。そう試みる。でもダメだ。何かうまくいかない。
俺はいったい何をやってるんだろう。いったい何をしようとしてるんだろう?
どうして眠れなくなったりするんだ?
いったい何のせいで?
でも、答えは分かり切っていた。俺は既に眠りの世界にいる。これは明晰夢なのだ。
俺は夢の中で、夢が夢であることを自覚してしまった。
だから、夢を現実だと錯誤することもなく、ただ曖昧に微睡んでいる。
891: 2014/03/19(水) 02:17:31 ID:xlx8U5Xo
ふと、誰かが俺のことを見ているような気がした。
それはどことなく非現実的な印象を持つ視線だった。とてもこの世のものとは思えない。
俺は瞼を開いてその視線の元を辿ろうとした。暗闇の中で、視線の主は鈍く光っていた。
静かな、青ざめた光。鈍い灰色。
俺を見ていたのはイグアナだった。でも、もちろん真夜中のリビングにイグアナがいるわけがない。
だからこれは幻覚か、妄想か、一種のイメージでしかない。
イグアナ。いつだったか、イグアナについての小説を読んだことがある。
主人公は禁猟区の河床で日光浴をしているイグアナを見かける。
かたちに関してはともかく、主人公はその皮膚の宝石のような輝きに強く惹かれる。
そして、その皮膚の色彩に惹かれるあまり、イグアナを撃ち頃してしまう。
その美しい皮膚によって、何かを作ることができるかもしれないと思ったのだ。
けれど、イグアナの氏体が石の上に横たえるのと同時、美しかったその輝きは失われてしまう。
イグアナの皮膚から星のような色彩は抜け去ってしまう。
残されたのはただ、コンクリートのかたまりのような、鈍い灰色に成り果てた、むなしい氏骸だけだった。
馬鹿げた話だ。
892: 2014/03/19(水) 02:18:05 ID:xlx8U5Xo
俺はイグアナを頃したことがない。見たこともない。
でも、なぜだろう、イグアナは俺を責めているような気がした。
もちろんそれは錯覚だろう。もう彼の瞳からは感情というものが消え去ってしまっていた。
彼は既に氏んでしまっているのだ。だから俺を責めることも、恨むこともできない。
美しかった色彩を失い、ただ無感動な灰色の塊になってしまっている。
こんなつもりじゃなかったんだよ、と俺は言う。
こんなことになるとは思わなかったんだ、と。
イグアナは悲しげなまなざしをこちらに向ける。
でもそれだって俺がそう感じるというだけだ。彼はもう悲しむことすらできない。
俺はイグアナを見たことがない。でも、頃したことはあるような気がしてきた。
だからこそイグアナはそこにいるのだ。そこから俺を見るでもなく見ている。
こんなつもりじゃなかったんだよ、と俺はもう一度呟いた。答えはどこからも帰ってこなかった。
俺はただ、きみに憧れていただけなんだよ。ただきみのようになりたかっただけなんだ。
取り巻く世界をきみと同じように感じてみたかったんだ。きみから何かを奪うつもりなんてなかった。
イメージは虚空を舞う空想の断片でしかなく、意味をなさない。
だから俺の言葉さえ、空疎な言い訳のようにしか響かなかった。
手のひらで叩けば気持ちのいい音を鳴らしそうなくらい空疎な、意味を持たない言い訳。
893: 2014/03/19(水) 02:19:20 ID:xlx8U5Xo
俺は灰色のかたまりでしかないイグアナを静かに見つめた。
彼は既に意思をもっていないはずなのに、彼の瞳はこちらを見つめているような気がする。
錯覚だ、と俺は頭の中で念じた。目を閉じてもう一度唱えてみる。錯覚なんだ、と。
もう一度目を開いたときにはイグアナの姿は消えていた。
あの土袋のような骸はどこにも転がってはいない。
それなのに、彼のまなざしは、まだそこに残されているような気がする。
それはいつまで経っても消えなかった。時計の針の音が柔らかに部屋の中を支配している。
針は動き続けている。換気扇のうねり。自分が目を開けているのか閉じているのか、よくわからない。
どのくらいの時間が過ぎただろう。
気付けば部屋の中はかすかに明るくなりはじめていた。カーテン越しに空が白み始めているのが分かる。
894: 2014/03/19(水) 02:20:28 ID:xlx8U5Xo
時計の針の音が響き続けている。時が経つにつれ、朝は自らの訪れをひそやかに主張しはじめる。
小鳥の鳴き声が換気扇のうねりに混じり始める。
俺は立ち上がってカーテンを開ける。オレンジ色の朝日が空を照らし始めている。
小さく首を振ってから、俺は窓辺から離れてコーヒーをいれた。もう眠ることは諦めてしまった。
ソファに座り直し、静かに目を瞑る。すると誰かが俺のことを見ている気がする。気配の方を振り返る。
でもそこには誰の姿もない。
俺は溜め息をついてから、コーヒーを啜る。
朝の太陽は静かに光を強めていく。俺の体をイメージの世界から暫定的な現実の世界へと引き戻す。
夢と現実との境界は曖昧だった。俺は眠っていたのだろうか。起きていたのだろうか。
895: 2014/03/19(水) 02:21:06 ID:xlx8U5Xo
やがて妹がリビングに現れた。「おはよう」と彼女は眠たげな顔で言った。
「おはよう」と俺は返事をする。コーヒーをもう一度口にする。それは既に冷え切ってしまっていた。
「寝てないの?」
妹はそう訊ねてきた。どうだろう、と俺は考える。自分でも分からなかった。
でもどちらでも同じことだ。朝は来てしまったのだ。
「眠れなかったんだよ」
俺がそう答えると、妹はちょっと困ったみたいな顔をした。
「ばか」
「うん」
「ねえ、あの子、朝起きたらいなかったんだけど、お兄ちゃん知ってる?」
「俺の部屋にいるよ」
俺の答えに、妹はどこか疑わしそうな顔をした。
896: 2014/03/19(水) 02:21:55 ID:xlx8U5Xo
「どうして?」
「さあ?」
はぐらかしたつもりはなかった。本当によく分からなかった
シロはどうして俺の部屋を訪れたんだっけ? ……ああ、そうだ。灯りがなかったからだ。
話をしているうちに、また二階から物音が聞こえてきた。
階段を降りる静かな足音。
あくびをしながら、シロが姿を現した。
「おはよう」と俺は言った。シロは眠たげに瞼をこすりながら返事をしてきた。
「……おはよう」
さて、と俺は思った。学校に行く準備をしなくては。
歯を磨いて顔を洗って制服に着替えろ。鞄の中身を入れ替えて、授業に備えろ。
それ以外にできることなんてないんだ。
897: 2014/03/19(水) 02:22:34 ID:xlx8U5Xo
三人でトーストを食べたあと、シロは眠り足りないといって二階へ戻っていった。
どこで寝る気なのかは知らないし、確認する気にもならなかった。
妹は気にしていたようだったけど、やがて諦めたようだった。
「あの子、いつまで置いておくの?」
「……いつまで?」
「いつまでも置いておくわけにはいかないでしょ?」
妹の言葉に、俺はわけもなく悲しくなった。でも、それはその通りだ。
「そのうち勝手に出て行くよ」
半分本気で言ったのだけれど、妹は少しむっとしたようだった。
俺は仕方なく立ち上がり、二階へと向かう。
898: 2014/03/19(水) 02:24:59 ID:xlx8U5Xo
彼女は俺の部屋のベッドで眠っていた。
「シロ」
名前を呼ぶと、うとうととしていたシロは、顔をあげてこちらを見た。
「今日はどこかに出掛けるのか?」
「……べつに。わたしにはもう、そんなに、することはないから。
その日が来たら、お兄さんに、お願いすることがあるかもしれないけど……」
「家にいるんだな?」
「……うん」
「じゃあ、鍵は閉めていくから、もしよそへ行く気になったら、玄関の植木鉢の下に鍵があるから、それで鍵をかけておいてくれ。
食べ物は冷蔵庫の中にあるものを勝手に食べていい。
もし食べられそうなものがなかったら、キッチンにカップ麺なんかが置いてあるから、それを」
「ありがとう」とシロはちょっと戸惑ったふうにお礼を言った。俺は頷いた。
それから間もおかずに、彼女は瞼をとじて枕に頭を下ろす。
「おやすみ」と彼女は呟いた。
「おやすみ」と俺も言った。
899: 2014/03/19(水) 02:27:05 ID:xlx8U5Xo
妹と一緒に家を出て、玄関に鍵をかける。太陽の光は朝よりももっと自己主張を激しくしていた。
暑いね、なんて妹が言っていた。俺は朝の天気予報で知った今日の予想最高気温を妹に告げた。
妹はげんなりした表情で空を睨んだ。
通学路の途中にサクラとユキトが立っていた。おはよう、と彼らは言った。
おはよう、と俺も言った。
ユキトはいつもみたいに爽やかな笑顔だったし、サクラはいつもみたいに眠たげなぼんやりとした顔をしていた。
昨日までと何ひとつ変わってなんかいない。
この世界の俺には、彼らと過ごした時間の記憶がたしかにある。そういう認識を植え付けられてしまっている。
だから、彼らと一緒にいることに違和感はない。
目に映る景色は、昨日までと変わらない。なにひとつ。
昨日も、俺はふたりと一緒に登下校した。馬鹿な話をしながら。夏の太陽を感じながら。
変わってしまったのは、俺の目の方なんだろう。
目の前で起こっているはずのことから、現実感が抜け落ちてしまっていた。
実感のない現実。
もし俺の願いを消し去れず、繰り返しだけが終わってしまったら、俺はこの世界に生きていくことになるのかもしれない。
やっぱり、馬鹿げた話だった。
900: 2014/03/19(水) 02:27:44 ID:xlx8U5Xo
つづく
903: 2014/03/20(木) 00:32:24 ID:4b0b3ia.
◇
ユキトとサクラは当たり前のように俺に接した。
俺たちは当たり前のように並んで歩いて学校へと向かった。
教室には既に何人かのクラスメイトがやってきていた。俺はいつものように自分の席に向かう。
タイタンはいない。
俺は彼と話さなければならないことがあったはずなのだ。
願いのこと。繰り返しのこと。司書さんを繰り返しから解放する方法について。
でも自分の中でも考えがまとまっていない。
どうして俺がこんな目に遭わないといけないんだろう、と俺は思った。
なんて惨めなことを考え方をする奴なんだろう、と俺を見下ろしている俺は思った。
教室の空気はなんとなく静かだった。朝だから? 太陽はうるさいくらいに光をまき散らしているのに。
誰かと誰かがささやき声を交わしている。
タイタンに会わなければいけない。彼とこれからのことを話したかった。
できれば彼にすべての判断を委ねてしまいたかった。俺はなにに対しても責任を持ちたくなかった。
904: 2014/03/20(木) 00:33:34 ID:4b0b3ia.
俺は鞄を置いて教室を出ようとした。タイタンはどこにいるんだろう?
図書室? もっと別のところ? まだ学校には来ていないのだろうか?
そういえば野球部は朝練をやっていなかったっけ? でも彼は、いつも教室にいる……。
でもとにかく俺は教室を出ようとした。
「どこか行くの?」と後ろからサクラの声が聞こえた。
俺はどう答えようか迷った。どこに行くと答えればいいんだろう?
「図書室」と俺はとりあえず答えた。「また本?」とサクラは呆れたような声をあげた。
俺は奇妙な苛立ちを覚えた。自分でも驚くくらい強烈な苛立ち。
どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだ?
みんな同じような顔をする。理解できないという顔。退屈そうな顔。意外そうな顔。似合わない、というような。
時には軽蔑するような視線を向けてくる奴すらいる。
905: 2014/03/20(木) 00:34:09 ID:4b0b3ia.
「何が楽しいの?」なんて訊かれたって分からない。
その質問に答えられないでいると「それ見ろ」とでも言いたげな、得意げな顔で笑い始める。
なんでそんな顔をされなきゃいけない?
おまえが何かを好きだと言ったとき、俺がそんな顔をしたことがあったか?
俺は好きで本を読んでいるんだ。理解してくれとも共感してくれとも言った覚えはない。
放っておいてくれ。
もちろんサクラは俺を責めていたわけではなかった。軽蔑していたわけでもなかった。
俺がそう感じただけのことだ。
でも、俺が感じた気持ちは単なる誇大妄想ではない。経験から生まれた反射的な心の動きだ。
誰にも分からなくても俺はそのことを知っている。
俺はとにかく感情を抑え込んで愛想笑いをしてみた。サクラに何を言ったってどうしようもないことだ。
誰も誰かを傷つけようとはしていない。それでも誰かが傷つく。
そんなの誰にも防ぎようがない。俺だって同じことをしている。いつも。絶えず。
仕方ないことだ。意図したことではなかったのだから。結果的にそうなってしまったというだけで。
906: 2014/03/20(木) 00:35:37 ID:4b0b3ia.
教室を出てすぐ、廊下の向こうからアメの姿が見えた。
彼女は俺に気付くと笑った。「おはよう。早いね」と言った。俺も「おはよう」と返す。
「どこか行くの?」と彼女は訊ねる。「図書室」と俺は答える。それで会話は終わった。
俺は彼女のことをアメと呼べなかったし、彼女は俺のことをヒメと呼ばなかった。
彼女は俺に対して何か言いたげにはしていなかった。呼び止めてくることもなかった。
すれ違うとそのまま教室へと入っていき、今度はサクラやユキトに対して「おはよう」と挨拶した。
その声が俺にはたしかに聞こえた。なぜだか遠いような気もした。
虚構と現実。
俺には傷つく権利なんてない。
907: 2014/03/20(木) 00:36:14 ID:4b0b3ia.
◇
図書室には司書さんしかいなかった。タイタンの姿はない。
足を踏み入れるのとほとんど同時に、司書さんはこちらに気付いた。
目が合うと柔らかに微笑む。壊れやすそうな微笑みだった。突けば割れてしまいそうなくらいだ。
「おはよう。珍しいね、朝から」
「まあ、なんとなく。……タイタンは来てませんか?」
司書さんはちょっと考えるような素振りで首を傾げた。
「今日はまだ誰も来ていないはずだけど」
「そうですか」
溜め息をつく。利用者のいない図書室は空虚だった。子供から存在を忘れ去られた隠れ家みたいだ。
すぐに図書室を出ようかと思ったけれど、なんとなく教室に戻る気にはなれなかった。
溜め息をつくと、司書さんが「何かあった?」と訊ねてくる。何かあったのはそっちだろう、と俺は思う。
908: 2014/03/20(木) 00:37:34 ID:4b0b3ia.
「いえ。考えなきゃならないことがあるんですけど、うまくまとまってくれなくて」
「ふうん」
どうでもよさそうに頷くと、彼女は思いついたように本棚を見回し始める。
それから彼女は図書室の奥の方に走っていった。
俺は手持無沙汰にあたりを見回しながら、手近にあった椅子に腰を下ろす。
戻ってきた司書さんは俺に向けて一冊の本を差し出した。
「はい」
「なんですか、これ」
「役立つかと思って」
にっこりという笑顔で差し出されたのは小林秀雄の「考えるヒント」だった。
コントみたいな出来過ぎたユーモアだ。
「どうも」と言いながら俺は本を受け取った。なんだか詐欺にあったような気分がした。
ぱらぱらとページをめくって内容を確かめる。面白そうな本ではある。
909: 2014/03/20(木) 00:40:48 ID:4b0b3ia.
ふと開いたページの一節が目に入る。
『東西ベルリンの交通が遮断されているとは、
かねてから読んだり聞いたりしていたが、行って見ると、やはり異様な感じを受ける』……。
別のページを開く。こんな一節もあった。
『……物を考えるとは、物を?んだら離さぬという事だ。
……考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常なことである』……。
たしかに面白そうな本ではあったけれど、残念ながら今の俺には役に立ちそうもなかった。
俺はもっと初歩的な部分で躓いているのだ。もっと根本的な部分で引っかかっているのだ。
俺は司書さんに礼を言ってから図書室を出た。
教室に戻る気にはなれなかった。サクラにも、ユキトにも、アメにも会いたくなかった。
910: 2014/03/20(木) 00:41:41 ID:4b0b3ia.
◇
逃げ場所は屋上しか思いつかなかった。
べつに面白くもない場所だ。俺とヒナは、いったいこんな場所で何を話していたのだろう?
出会ってから、六月のよく晴れたある日まで、毎日のように顔を合わせていたはずなのに。
俺たちは、そこで何かを話していたはずなのに。
なにひとつ思い出せなかった。
愛想なしでぶっきらぼうで、そっけない女の子。
目が合うと先に逸らしたのはいつも彼女の方だった。
あの日、ヒナは真剣な表情で俺の方を見た。そして俺のことを好きだと言った。
俺は戸惑って返事をすることができなかった。彼女はいなくなってしまった。
俺は彼女ともっと話をしたかったはずなのに。
でも、それができなくなったのは……『有り得たかもしれない可能性のひとつ』でしかなくなってしまったのは……。
どう考えたって、俺自身のせいだ。
911: 2014/03/20(木) 00:43:29 ID:4b0b3ia.
俺は自分の心の中が散らかっているのを感じている。
俺は繰り返しの記憶を取り戻している。だから、その最中に自分が感じたこと、自分が言ったことも覚えている。
言われた言葉も、繋いだ手のぬくもりも、笑い声も、そのすべてが嬉しかったことも、ちゃんと覚えている。
アメのことも、先輩のことも、ヒナのことも。
それは都合のいい幻想だった。単なる夢の中の光景でしかなかった。
けれど、俺はその夢の中で彼女たちのことを本当に好きだったのだ。
俺の心は今ひどく散らかっている。ばらばらになって、分裂している。
俺の中にアメのことを好きだった俺がいる。先輩と手を繋いでいたかった俺がいる。
ヒナを抱きしめていたかった俺がいる。
それらは感覚や感情を伴った記憶として俺の脳に焼き付いている。
自分勝手な欲望が行き場を失って胸の内側でわだかまっている。
手のひらが覚えているのだ。かきむしったって消えてくれない。
912: 2014/03/20(木) 00:44:30 ID:4b0b3ia.
俺は、彼女たちのことを忘れるべきだ。
自分でさえ気味が悪いと思うようなことだ。
彼女たち本人からすればもっと気味の悪いことだろう。
俺は早くすべてを忘れてしまいたかった。どうしても忘れたくて仕方なかった。
耐えきれなくなって右手で拳を作って頭を殴ってみた。最初はうまく殴れなかった。
段々と力を籠めていく。痛さを増していく。
それでも無意識が制御しているのだろうか。思い切り殴れはしない。
忘れろ、と俺は唱える。頬を殴る。軽い、空疎な音がする。
俺の中身はからっぽなのだ。もう何も残っていやしない。
右手の爪を立てて逆の手の甲を引っ掻いた。手首を引っ掻いた。血すら流れない。
俺は壁に自分の体をぶつけた。頭を叩きつけようとしたけれどやめてしまった。
やめてしまう自分に嫌気が差した。その程度なのだ。
言い訳がましい自己処罰。もちろん記憶は消えてくれない。
忘れろ、と俺はもう一度唱えた。忘れろ。おまえは、気持ち悪いんだよ。そう思った。
気持ち悪い。気持ち悪い。俺が、気持ち悪い。気持ち悪い。消えろ。消えろ。
……気持ち悪いんだよ。
914: 2014/03/21(金) 03:25:40 ID:NsQrW/LQ
◇
俺は誰かと話している。
「ねえ、ヒメ、聞いてる?」
「聞いてる」
「ホントに? じゃあ、何の話してたか言ってみてよ」
「……」
「やっぱり聞いてなかった」
「……何の話だっけ?」
「だから、お祭り。今年も三人で行こうよ。去年みたいにさ。ダメ?」
「……うん。いいよ」
「よし。じゃあ、ユキトにも確認しておくから」
サクラなのだ、と俺は思う。彼女はほっとしたような溜め息を漏らす。
915: 2014/03/21(金) 03:26:17 ID:NsQrW/LQ
「こんな場所にいて、暑くないの?」
暑さや寒さは、あまり感じなかった。空がある。風がある。街が見える。南の空に太陽が見える。
屋上だ。
「暑くないよ」
「ふうん。……ねえ、ヒメ、少し話をしてもいい?」
「……どんな?」
「わたしね、ヒメとまた話せるようになって、うれしいよ」
「とつぜん、何?」
「わたし、ヒメのこと、好きだよ。ユキトのことも」
俺は答えなかった。
916: 2014/03/21(金) 03:26:53 ID:NsQrW/LQ
「だからね、また三人で一緒にいられるようになって、うれしいよ。
わたしが変なことしたせいで、もうヒメと話せないんじゃないかって思ってたから」
本当に不安だったんだよ。彼女はそう言った。
「こんなふうに、三人ずっと一緒にいられたらいいよね。本当に……こんな日が続けばいいのに」
俺は笑った。それから言葉を口にした。
「嘘つき」
彼女は息を呑んだ。たぶん傷ついていた。
けれど、俺は間違っていない。彼女は嘘をついている。
そのことが、俺にはちゃんと分かる。
俺だけはそのことを既に知っている。
917: 2014/03/21(金) 03:27:29 ID:NsQrW/LQ
◇
「今日は部活に出るの?」
誰かがそう訊ねてきた。チャイムが鳴っているような気がする。
周囲のざわめき。たぶん、教室だ。俺はきっと座っている。
「……部活?」
「部活」
「どうしようかな」
出たくはなかった。部室にはきっと先輩がいる。
彼女とは顔を合わせたくない。
「なんだよ、出ないの?」
誰かは呆れたみたいに溜め息をついた。
「昨日は俺のこと、無理矢理引っ張ってったのに」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
918: 2014/03/21(金) 03:28:52 ID:NsQrW/LQ
そうだったかもしれない。でも、昨日と今日は、俺の中ではまったく違う。
断絶がある。
境目だ。落とし穴みたいなものだ。その日からすべてが入れ替わってしまう。
そういう日がある。誰にでも降りかかりうる。たまたま俺に降ってきた。
みんなにあるのと同じように。
「まあ、出ないならいいけど。じゃあ、一緒に帰ろう」
俺と話しているのはユキトだ。そのことに気付く。
「どうして?」
「どうしてってなに?」
彼はちょっと戸惑ったふうに笑う。混乱しているようだったが、どちらかというと混乱したいのは俺の方だ。
919: 2014/03/21(金) 03:29:24 ID:NsQrW/LQ
「……帰らないの?」
「部活に出るよ」と俺は答えた。
「そっか」
彼はたぶん、俺の様子がおかしいことに気付いていた。
「じゃあ、俺は先に帰る」
彼はそう言って、俺の居る場所から離れていった。
どこか落ち着かないような素振り。
俺は深呼吸をしようとするが、呼吸の感覚がうまくつかめなかった。
現実感がない。
920: 2014/03/21(金) 03:30:13 ID:NsQrW/LQ
◇
「今日はお友達はお休みですか?」
誰かが言った。
「そうみたいですね」と俺は答えた。
「残念です」と彼女はさして残念でもなさそうに呟く。
「そうですね」と俺は頷く。
「何かありましたか?」
「何かって、何ですか?」
「何かです」
「どうして?」
「様子が変に見えたから」
921: 2014/03/21(金) 03:30:47 ID:NsQrW/LQ
「寝惚けているんですよ」
「じゃあ、いつものことですね」
「そうですね」と頷いてから、俺は考え込んだ。
そうだ、いつものことだ。いつものこと……。
ここはどこだろう?
話しているのは誰だ? たぶん先輩だ。
先輩。
瞳がとらえている光の輪郭が、少しずつはっきりとし始める。
かたちに意味が与えられる。俺は視界を取り戻していく。
「……千紗先輩?」
「……え?」
彼女は心底戸惑ったような声をあげた。冗談でも耳にしたみたいな声。
その呼び方はどうしたの、とでも言いたげな。俺はごまかすみたいに笑う。
光が散逸する。景色の輪郭が曖昧になる。目を覆う極彩色の光。
潰れる。
922: 2014/03/21(金) 03:31:23 ID:NsQrW/LQ
彼女は気を取り直すみたいに咳払いをして、話題を変えた。たぶん気味悪がったんだろう。
「もうすぐお祭りですね。ヒメくんは、誰かと行くんですか?」
「お祭り……」
「お祭りです。商店街の」
「お祭り、ですか」
「はい。お祭り。フェスティバル」
「……」
「……カーニバルでもいいですけど」
「……」
「……カーニバルって、もともとは謝肉祭のことを指していたそうですよ」
923: 2014/03/21(金) 03:33:15 ID:NsQrW/LQ
「謝肉祭?」
彼女はほっとしたように声の調子を和らげた。表情は分からない。
視界に映るのは、意味を失い、整合性を失った、光のかけらでしかない。
「はい。謝肉祭。キリスト教のお祭りです」
そうなんだ、と俺は思った。
「キリスト教では、イースターの四十日前からその当日までの間、獣肉や卵や乳製品を食べるのを禁じるんだそうです。
それで、その禁止の直前に、肉食と告別するためのお祭りが、謝肉祭だったみたい。
……細かい部分は違うかもしれませんし、現在どのようになっているのかは分かりませんけどね」
「……」
「元々の形としては、数日間好き勝手に大騒ぎして、気ままに飲み食いをするお祭りだったらしいです。
祝祭の最後に、その身勝手なバカ騒ぎの責任を藁人形に押し付けて、火炙りにする……。
細かなニュアンスは違ってるかもしれませんし、聞いた話自体間違ってるかもしれませんけど、そんな祝祭」
眠りたいなあと俺は思った。けれど眠れない。
924: 2014/03/21(金) 03:34:30 ID:NsQrW/LQ
◇
「おかえり」と誰かが言った。当たり前みたいな声。
イグアナが俺を見ているような気がする。
「ただいま」
「どうしたの?」
「なにが?」
「変だよ」
「なにが」
「お兄さん」
ああ、シロだ。シロだったのだ。
「どこが?」
「……様子が」
925: 2014/03/21(金) 03:35:36 ID:NsQrW/LQ
「おかしいのは俺じゃない」
と俺は言った。
「おかしいのは世界の方だ。どうして世界がこんなに簡単に歪んだりするんだ?
そんなの間違ってる。誰かの気持ちや願いなんかでどうして事実が変わったりする?
そんなふうに変わるべきじゃないんだ。欲望や意思なんかで、世界を捻じ曲げちゃいけないんだ」
「でも、それをしたのはわたしたちだよ」
「こんなつもりじゃなかった。こんなことを望んだんじゃない」
「それは起こってしまったことなんだよ。手違いだろうと、何かのすれ違いだろうと、とにかく起こったことなの。
誰のせいでもないとも言えるし、誰のせいでもあるとも言える。でもそんなのはどうだっていいことだよ」
「俺が悪いのか?」
「そうかもしれない。あるいはそうじゃないかもしれない。でも、それもどうだっていいことだよ。
お兄さん、わたしが嘘をついた理由も、本当のことを言った理由も、おんなじなんだよ。
わたしはお兄さんが『知っている』ことにもできるし、『知らなかった』ことにもできる。
だから、お兄さん。忘れたいなら忘れていいよ。“その日”が来たらちゃんと動けるように、わたしが調整してあげるから」
926: 2014/03/21(金) 03:37:49 ID:NsQrW/LQ
「間違ってるよ」と俺は言った。でも、誰に言ったのかは分からない。
「間違ってる。そんなふうに都合よく作り変えたって、結局なんの意味もないんだ。
そういうことを続けているうちに、段々と意味がなくなっていくんだ。
人間は人形になって、現実が筋書きになる。そんなことをして何かを取り戻しても、価値が薄れていくだけなんだ」
「だったら、わたしたちの価値ってなに?」
「……」
「現実の価値ってなに? ねえ、わたしやあの二人は、いったいなんのために生まれたの?
ただ誰とも知れない人の慰み者になって、殺されるためだけに生まれたの?
そうじゃないなら、どうして氏んでしまったの? わたしは、間違いを正そうとしただけだよ」
「何かが失われることが悲しいのは、それが取り返しのつかないものだからなんだよ。
唯一無二で替えのきかないものだからなんだ。簡単に歪められる世界では、幸福さえ意味を持たないんだよ」
「他人事みたいに言うんだね。ああ、でも、そうだよね。――他人事だもんね?」
「……」
927: 2014/03/21(金) 03:39:11 ID:NsQrW/LQ
「理不尽はありふれてる。悲劇は誰にでも起こりうる。悲しいのは自分だけじゃない。
相対的に見れば恵まれている。誰だって不幸や苦しみを抱えてる。そうかもしれない。もちろんそうだと思う。
でも、ねえ、だから受け入れろだなんてことを、わたしの友達に、お兄さんは言える?」
「……」
「悲劇を受け入れなきゃいけないのは、それが変えられないものだからでしょう?
わたしは悲劇を覆すだけの力を手に入れようとしてきただけ。……その力を行使しようとしているだけ」
「でも、仕方ないだろ。誰か一人を責めればそれで終わりというわけじゃないんだ。
足元には深いぬかるみがあって、どれだけ注意深く進んでも足をとられてしまう奴はいる。
誰だってそうなりうる。“誰だって”だよ。俺やきみだけの話じゃない。誰が加害者で誰が被害者かなんてわかりっこない。
それが、他人が存在するということなんだと思う。もしそれらを全部なくそうとしたら、世界を滅ぼすしかなくなってしまう」
「人が氏んでいるのよ」とシロは言った。
「氏んでいるの。それを当たり前のように受け入れる世界なんて、滅んでしまったって別にかまわない」
928: 2014/03/21(金) 03:41:03 ID:NsQrW/LQ
俺は火炙りにされる藁人形のことを考えた。
誰かの快楽の責任を押し付けられ、声もあげずに燃え尽きるしかなかった藁の人形。
「わたしはこんな世界を受け入れるわけにはいかない」
彼女は笑った。
「全部、忘れていいよ。ごめんね、変なこと思い出させて。そのせいで、だいぶ混乱しちゃったみたいだね。
でも大丈夫。お兄さんは何もかも忘れて、普段通りに生活していいよ。
べつに何もかもを覚えていなくていい。普通にしてればいいの。だから、全部忘れて?」
光。
「わたしの夢に、もう少しだけ付き合ってね」
――おやすみ。
彼女はそう囁いた。視界が緩やかに白く染まっていく。
光の濁流にのまれて、俺はようやく意識を失うことができた。でも、これでいいはずがない。
これでいいはずがない。
それなのに俺の意識は薄れていく。光のかけらが拡散していく。
意識が失われてしまう。
932: 2014/03/24(月) 01:24:04 ID:LBExqyM6
◇
ノックの音で、目が覚めた。
「お兄ちゃん、起きて?」
続く声に、俺の意識は引っ張られる。夢と現実の境目で揺れていた意識が現実へと引きずられる。
小鳥の鳴き声と、カーテン越しでも刺すように鋭い朝の陽射し。
瞼を開くと刺さるような光が疎ましく、俺はすぐに目を閉じた。
柔らかな倦怠感の中の静かな明滅。
それでも俺は瞼をもう一度開いた。
景色は鮮やかだったし、感触は複雑だった。俺は上半身を起こして、部屋の中を眺めてみる。
「どうかした?」
何も答えずにいると、妹はそう訊ねてきて、部屋の中に踏み込んできた。
「……ずいぶん長く眠っていた気がする」
933: 2014/03/24(月) 01:24:40 ID:LBExqyM6
いつものことでしょ、という顔で、妹はくすくす笑った。
それからベッドのそばに近付いてきて、俺の頭をぽんぽんと叩く。
「すごいねぐせ」
「……うん」
懐かしい匂いがしたような気がしたけれど、その正体はつかめない。
俺は一度瞼を閉じて、それからもう一度開いてみた。
「目がさめた?」
と妹は笑った。"どうだろう"、と俺は思った。そして首を横に振った。
たぶん彼女は冗談だと思ったのだろう、おかしそうに笑った。
「眠い?」と彼女は訊ねた。
「とても」と俺は答えた。答えながらなんとなく窓の外を見ていた。
934: 2014/03/24(月) 01:25:43 ID:LBExqyM6
「変な夢でも見たの?」
「……変な夢?」
変な夢? 見たような気がする。見なかったような気もする。
何度もこんな朝を繰り返したような気がする。
「……今何時?」
「九時半」
「……九時半?」
「あれ、約束は昼過ぎだって言ってたよね?」
「学校は?」
「……また、寝惚けてる」
妹は俺の方をじとっと睨んだ。何のことか、分からない。思い出せない。
935: 2014/03/24(月) 01:26:17 ID:LBExqyM6
「ひょっとして、昨日のことも忘れてる?」
「昨日?」
妹は一瞬だけ、深く傷ついたような顔をした。そういうふうに見えた。
「昨日――」
彼女は何かを言おうとして、結局口を噤んだ。
俺は強烈な後ろめたさを覚えたけれど、肝心の昨日のことが思い出せたわけではない。
「昨日……?」
思い出そうと試みる。でも、妹は俺が"思い出そうとしている"ことに気付いて、いっそう傷ついたように見えた。
傷ついている、というか。
泣きだしてしまった。
936: 2014/03/24(月) 01:27:33 ID:LBExqyM6
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、彼女は俯いた。手のひらで瞼を覆って。
どうすればいいのか分からなかった。
どうして妹が泣いたりするんだろう?
文脈を考えれば原因は明らかだ。彼女は俺が“忘れている”ことを悲しんでいる。
でも、俺は思い出せない。なにひとつ。昨日に関する俺の記憶は奇跡的なくらいまっさらだった。
俺はどうすればいいのか分からなかった。
けれど、“俺”は、妹の頭の上に手を伸ばした。
「うそだよ、ごめん。覚えてるよ」
“俺”はそう言った。俺はひどく驚いた。それは奇妙な感覚だった。
俺は俺として、ちゃんと自分の体を操っていた。自分の目を動かしていた。映る景色を受け止めていた。
それなのに、急に、体が言うことをきかなくなってしまった。
俺はなにも言おうとなんてしてない。腕を動かそうとなんてしなかった。
でも、“俺”は勝手に声を出した。“俺”は妹の頭を撫でていた。
937: 2014/03/24(月) 01:28:17 ID:LBExqyM6
「ごめんな、変な冗談言って。ちゃんと覚えてるよ」
“俺”はちょっと戸惑った風に謝った。でも俺はなにも覚えてなんていない。
「きらい」と妹は言う。
「どうして変な嘘つくの?」
妹は涙をこぼしながら、恨めしくこちらを睨みながら、それでもほっとしたような顔をしている。
目は、合っている。彼女は“俺”の方を見ている。それなのに、彼女は俺を見てはいない。
何が起こっているのか分からない。それなのに、“俺”は言葉を重ねる。
「ごめんな」
俺の意思とは無関係に。
「……ばかなの?」
そんな、“俺”に対して、妹は心を許している。涙の跡を残したまま、困ったように笑う。
“俺”の言葉に一喜一憂している。安堵している。
938: 2014/03/24(月) 01:29:04 ID:LBExqyM6
「覚えてるよ」と“俺”は言う。
「全部覚えてる」
でも俺はなにひとつ思い出せない。
「不安にさせないでよ」と妹は言った。
それから俺の手のひらを掴んで、自分の頬に寄せる。
その感触も、温度も、ちゃんと俺に伝わっている。目が光を捉えるのと同じように、耳が音をつかまえるように、鼻が匂いを感じるように。
でも、その感覚は、たぶん、俺のものではなかった。
「ごめん」
「もういいよ」と言って、妹は“俺”の方を見上げながら、柔らかく笑った。
綺麗な微笑みだった。そんな表情を、俺は見たことがないような気がする。
939: 2014/03/24(月) 01:29:44 ID:LBExqyM6
◇
何が起こっているのかよく分からないまま、“俺”はベッドを抜け出し、着替えを始めた。
妹は慌てて部屋を出て行く。その姿を見送ってから着替えるのを再開する。
着替えを終えた後、“俺”はカーテンを開ける。夏の陽射し。既に太陽は中天に昇っている。
俺は眩さに目を細めたけれど、それは俺ではなく“俺”がしたことだったのかもしれない。
少なくともカーテンを開けたのも、着替えたのも俺ではない。
「さて」と“俺”は言う。俺は続く言葉にかすかな期待をした。
ひょっとしたら“俺”は、俺に対して何か語り掛けてくれるのではないか、と。
そして自分自身について説明し、俺の今の状況について説明してくれるのではないか、と。
でも続く言葉はそうじゃなかった。
“俺”は静かに深呼吸をした。深く息を吸い込んで、吐き出した。それから十秒ほど、窓の外をじっと睨んでいた。
「がんばろう」
と“俺”は呟いた。本当に独り言のように。
でも俺は、そんなことを言おうとしてはいない。
940: 2014/03/24(月) 01:30:56 ID:LBExqyM6
「起きたみたいだね」
部屋の扉が軋んで、シロが現れた。シロ。シロだ。シロがいる。
シロ。……シロが、どうしたというんだろう?
「おはよう、シロ」と“俺”はごく当たり前のように挨拶をした。
どうして俺は、今、シロの存在に驚いたんだろう。
シロが、どうかしたんだろうか?
彼女はただの、親戚の子だ。休み中だけ、うちに遊びに来ているだけの。
細かな事情は忘れてしまったけど、とにかく彼女はうちに滞在している。
俺の認識は、ちゃんとそう言っている。
「今日は友達とお祭りに行くんだっけ?」
「うん。シロも一緒に行く?」
“俺”は俺の意思を無視して、当り前のように返事をした。
「わたしがいたら、邪魔でしょう?」
「そんなことないよ。べつに。シロが人見知りするっていうなら、無理しなくてもいいけど。
でも、せっかくのお祭りだし、家にいるだけってのもつまらないだろ」
941: 2014/03/24(月) 01:32:27 ID:LBExqyM6
「……どうしようかな」
シロは困ったように考え込む。ごく普通の小学生の女の子みたいな無邪気な仕草で。
“みたいな”も何も、シロはごく普通の小学生の女の子なんだけど。
「まあ、考えておいてよ」
と“俺”は言った。それからシロの頭を撫でた。どうやら“俺”は誰かの頭を撫でる癖があるらしい。
指先を、シロの髪がくすぐる。感触は俺にもちゃんと分かる。
「……髪、気安く触らないで」
シロは拗ねたような、困ったような声をあげた。俺は彼女のそんな仕草を意外に感じた。
“俺”は「ごめん」と謝りながらからかうように笑う。「もう」、とシロはそっぽを向いて溜め息をつく。
誰か、説明してくれ。そう怒鳴ろうとした。けれど俺の喉は俺の支配下にはないようだった。
俺は操縦桿を奪われたのだろうか。それとも、もともと操縦桿を握っていると錯覚していただけだったのだろうか。
この状況はいったいなんなんだ?
俺は悪い夢でも見ているのか? それとも気でも違ったのか?
問いが発せない以上、答えが返ってくるはずもなかった。
944: 2014/03/26(水) 01:02:03 ID:KLiDvTc.
◇
"俺"は俺という意識を置き去りにして勝手に生活を始めた。
妹は当然みたいにトーストを焼いて"俺"に差し出した。
"俺"はそれを受け取って礼を言って食べ始めた。
俺はブルーベリージャムの気分だったけど"俺"はチョコレートクリームをトーストの表面にたっぷり塗りたくった。
チョコレートの甘味が口の中に放り込まれる。
気の乗らない食べ物を無理やり食べさせられている。
けれど"俺"は実にうまそうにトーストを食べているようだった。
「もっと焼く?」
「うん」
「コーヒーは?」
「飲む」
「はいはい」
妹は笑っていた。
945: 2014/03/26(水) 01:02:35 ID:KLiDvTc.
トーストを食べ終えて、"俺"はリビングのソファに腰かけてコーヒーを飲んだ。
ついこの間俺がそうしていたのと同じように。当然似たような視界だ。
俺は"俺"が身動きを取らないのをいいことに、自分で自分の体を動かしてみようとした。
けれど体はまったく動かなかった。ときどき勝手に身じろぎをするくらいだ。
手足や首や肩、指先に至るまで、俺の意思がまったく体に伝わっていない。
この状況はいったいなんなんだろう? と俺は考える。"考える"ことができるのを不思議だと思う。
肉体を操ることはできなくなっているのに、思考はできる。こんな奇妙な話もない。
いったいなぜ、俺はこんな状況に立たされているんだろう。
誰のどんな意思で? どんな必然性があって?
946: 2014/03/26(水) 01:03:20 ID:KLiDvTc.
おい、と俺は声をあげようとしたが、声は出せなかったので、結局頭の中で呟くだけにした。
いったい何が起こっているんだ? 俺はそう自分に訊ねてみた。
"俺"はリモコンを操作してテレビの電源をつけた。朝のワイドショーを見ながら退屈そうにあくびをした。
俺はここにいる。俺の体の中に居る。でも、俺の体を動かしているのは俺じゃない。
じゃあ誰なんだ?
誰かが俺に成り変わって生活しているのか?
俺じゃない誰かが俺のふりをして?
おい、と俺は頭の中でもう一度言った。おまえは誰だ、と。体を操っているおまえは誰だ、と。
答えはやっぱりなかった。聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。
何度か試したけれど、結局変化は訪れなかった。
世界がひっくりかえってしまったような気がした。
今まで俺の体を動かしていたのが、俺ではなかったような気さえしてくる。
体を動かしている"誰か"と、俺の行動や意思が、偶然重なっていただけだったのかもしれない。
世界がひっくりかえるような衝撃を受けたはずなのに、俺の体はまったくダメージを受けずに平然としていた。
まるで俺自身の意識なんて、背中に貼りついていた意味のない"視点"か何かでしかなかったみたいに。
947: 2014/03/26(水) 01:04:43 ID:KLiDvTc.
"俺"は妹がいれてくれたコーヒーを飲みながら妹に何かを言った。
俺は自分の口が勝手に動く感覚が無性に怖くなった。
落ち着け、と俺は自分に――俺という意識に言い聞かせる。
少し経ってからようやく、状況を冷静に分析しようとすることができた。
とにかく、俺の体は勝手に動いている。俺の意思とは無関係に。
そして、俺は俺の身体の中に、いまだ宿っている。感覚だってちゃんと存在している。
なぜこんなことになっているのかは分からない。
身動きだってとれない。でも、妹はごく当たり前みたいに、"俺"に接している。
気付く様子はまったくない。
俺はもう一度体を動かしてみようとしたけれど、できなかった。
948: 2014/03/26(水) 01:06:39 ID:KLiDvTc.
溜め息をつこうとしたができなかったので、頭の中で「ふー」と呟いた。
考えているうちに妙な度胸がついて、とにかくこの状況を見定めてやろうという決意ができた。
とにかく起こっていることにとことん付き合ってやろうと。
もしこれが夢や妄想や幻覚の類だったら、なにも恐れることはない。時間が経てばやがては醒めるだろう。
逆にこれが実際に起こっている不条理な出来事だったとしても、身動きもとれないのではしかたない。
とにかく俺には状況が変化するのを待つしかなかった。
そうと決めてしまえば、"俺"が何かの行動を起こしたり言葉を放ったりするのが待ち遠しくさえ思えた。
そういうところからわずかなりとも違和感のようなものを手に入れられれば、この状況を掴むヒントにもなるかもしれない。
けれど"俺"はコーヒーをひとりで黙って飲むだけで、何も言わなかった。
まあいいさ、と俺は思った。妹としていた会話を考えると、"約束"が昼過ぎにあるらしい。
そしてどうやら今日は"お祭り"らしい。たぶん、サクラやユキトとの約束のことだろう。
俺にはちゃんと、約束を交わした記憶が残っている。サクラに誘われたのだ。
どうしてその出来事から今までの記憶が欠けているかは分からないが……思い出せないものは仕方ない。
とにかく昼過ぎまで待てば、状況はなにかしら動くのだ。
時計を見たかったが、"俺"は俺の意思ではまったく動いてくれなかった。
949: 2014/03/26(水) 01:08:14 ID:KLiDvTc.
いったいいつまでこの状況が続くのかと思うとイライラしたけれど、とにかく今は眺めることしかできない。
こうなってしまうと時間の流れがいやに遅く感じられた。
ふと後ろから声が聞こえた。
「お兄さん、約束、何時だっけ?」
「昼過ぎかな」、と"俺"は答えた。
「そう」と答えたのは、たぶんシロだ。
「行く気になった?」
「そういうわけじゃないけど。……わたし、ちょっと散歩してくる」
「いってらっしゃい」
言いながら、"俺"は振り返った。シロは毒気を抜かれたような顔で溜め息をついている。
出来の悪いホームドラマでも見せられているような気分だった。
950: 2014/03/26(水) 01:09:59 ID:KLiDvTc.
"俺"はコーヒーを飲み干すとカップを流し台に持っていった。
それからふと何か思い立ったのか、階段へと向かい、二階にあがる。
自室に辿り着くと、入口に立って部屋の中を見回し始めた。
部屋の中は、よく見ると奇妙に片付いていた。
本は本棚の中にジャンルごとに分けられ、文庫別に、作者のアイウエオ順に並べられていた。
映画のDVDも綺麗に整頓して並べられていたが、そこには特に規則性はない。
床に散らかっていた衣服はどこにも見当たらない。
クローゼットの中の箪笥に畳んでしまいこんだのかもしれない。
事物は適度に整理され、実用に応じて取り出しやすいように配置されていた。
きわめて実務的な整頓の仕方だった。
抽象的な概念や思想を差し挟む猶予がないくらいにシンプルな整え方。
言ってしまえばごく普通の男子高校生の部屋のように。
もちろんそれは少しも奇妙なことではない。
俺はごく普通の男子高校生だったし、そうである以上俺の部屋がごく普通の男子高校生的であるのは自然なことだ。
951: 2014/03/26(水) 01:11:45 ID:KLiDvTc.
問題は、俺がこの部屋に居心地の悪さを感じているというところだ。
どうしてだろう、ここは俺の部屋なのだ。ちゃんと。そこに間違いはないはずだ。
それが勝手に変化しているから? 覚えもないのに片付けられているから?
それだけではないような気がする。
"俺"はしばらく部屋の入口から内部の様子を見回していた。
ベッドや床や本棚やクローゼットや壁、窓にカーテン。視点はさまざまな場所をさまよった。
そして"俺"はひとつ頷く。満足げというのとは違うが、何かに納得しているように。
さっき生まれたはずのわずかの度胸は、既にほとんど機能していなかった。
自分がいったい誰なのか、それを不安に思ってしまった。
それから"俺"は溜め息をついた。ひどく憂鬱そうな溜め息。頭痛を堪えるような。
もちろん頭痛なんてなかった。俺にはちゃんとそのことが分かる。
「大丈夫」と"俺"は呟いた。いったい"俺"は……何を考えているんだろう?
952: 2014/03/26(水) 01:12:45 ID:KLiDvTc.
不意に、後ろから声が掛けられた。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「ああ、いや」
首は勝手に振り返り、口は勝手に動いて返事をした。
「まあ、いろいろね」
いかにも「何事もない風を装った声」だった。自分が発したものではないと思うと、途端にその胡散くささが分かる。
妹は何も言わずに、"俺"の目を見た。それから不安そうに笑う。
「お兄ちゃん、最近、ちょっと変わったよね」
……"変わった"?
「そう?」
953: 2014/03/26(水) 01:13:32 ID:KLiDvTc.
「うん。なんか、明るくなった。昨日だって……」
妹は何か言いかけたけど、結局最後まで言わなかった。昨日何があったって言うんだ?
「前まで暗かったみたいな言い方だ」
「違うの?」
妹はクスクス笑った。"俺"も困ったみたいに笑った。俺は笑えなかった。
「それって、お姉ちゃんたちの仲直りしたから?」
「どうかな」
俺はそのやりとりを他人事のように聞いている。
954: 2014/03/26(水) 01:14:27 ID:KLiDvTc.
「ねえ、前までの俺はそんなに暗かった?」
どうかな、という顔で妹は考え込んでしまった。その表情は、ちゃんと俺が知っている妹のものだ。
「暗いっていうか、変だった」
「どんなふうに?」
「なんかね、ずっと考え込んでるみたいな感じ」
「……ふうん」
「自覚なかった?」
「そんなには」
955: 2014/03/26(水) 01:15:07 ID:KLiDvTc.
「でも、最近は明るくなったよ。元に戻ったみたいに」
妹はそう言った。俺はその言葉に大きなショックを受けた。
待てよ、と俺は言おうとした。嘘だろ。
「そっか」
「うん。今のお兄ちゃんの方が好きだよ」
言ってしまってから、彼女は口に出したことを後悔するみたいに視線をさっと逸らした。
「そっか」と"俺"は嬉しそうな声を漏らした。
「……うん。よく笑うようになった」
「前までは、笑わなかった?」
「笑ってたけど、無理してる感じだった。追いつめられてるみたいな。でも、今は、落ち着いてる。
お兄ちゃんが笑ってると、わたしも安心できる」
俺は溜め息をつこうとしたができなかった。思わず自嘲の笑みをこぼしそうになったけれどこぼせなかった。
もしこの状況に何者かの意図が介在しているとしたら、と俺は考える。
そいつはよっぽど、俺のことが嫌いだったに違いない。
956: 2014/03/26(水) 01:16:39 ID:KLiDvTc.
◇
昼過ぎに玄関のチャイムが鳴った。
俺は身動きのとれない状況に退屈しはじめていた頃だったが、"俺"はずっとソファーでぼんやりしていた。
"俺"が立ち上がって玄関に向かうと立っていたのはサクラとユキトの二人だった。
俺のふたりの友人が、俺ではない"俺"に話しかける。
「やあ」とサクラは当たり前みたいな顔で挨拶した。
「やあ」と"俺"は返事をした。
「ちゃんと起きてたね。寝てるかと思った」
ユキトはからかうみたいに笑った。"俺"も応えるみたいに笑った。
「俺だっていつまでも寝てばかりじゃないよ」と"俺"は言う。そうかよ、と俺は思う。
二人は顔を見合わせて笑った。
957: 2014/03/26(水) 01:18:21 ID:KLiDvTc.
◇
夕方まで、"俺"たち三人と妹はどうでもいいような雑談をしていた。
休みに入ってすぐで気分が高揚しているのかもしれないが、誰も彼もが楽しそうだった。
サクラは私服姿だった。祭りだからといって浴衣を着たりはしないらしい。
どうしてか、と"俺"は訊ねた。
「見てみたかった?」
とサクラは意地悪そうに笑う。
「ちょっとね」と"俺"は言う。
「そっか。じゃあ着てくればよかったかな」
ユキトと"俺"は顔を見合わせて笑う。俺は身体の感覚から"自分"が笑ったことを察知する。
958: 2014/03/26(水) 01:20:04 ID:KLiDvTc.
夏の日没は遅いから、四時を過ぎてもあたりはまだ明るかった。
シロはその頃になってようやく散歩から帰ってきた。
「遅かったね」と妹は言う。
「ちょっとね」とシロは言う。
「どこにいってたの?」と"俺"が訊ねる。
「散歩」とシロは言う。
「だれ?」とサクラ。
「親戚の子。休み中こっちにきてるんだ」"俺"だ。
こんな馬鹿げた状況で繰り広げられる日常会話が、俺にはなんだか間抜けに聞かれた。
そんなことより俺が変なんだよ。変だろ? 変なはずなんだよ。誰か気付けよ。
でも誰も気付かなかった。
959: 2014/03/26(水) 01:20:58 ID:KLiDvTc.
◇
結局シロと妹も"俺"たちについてきて、全員でバスに乗って祭りに行くことになった。
サクラもユキトも大勢の方が楽しいだとかなんとか言っていた。
体がもうひとつあったら俺だって混ぜてもらいたいくらいだ。
バスにはたくさんの人が乗っていた。
ぎりぎり"俺"たち全員が座れるだけの席は空いていたけれど、それでほとんど満席になってしまった。
空いている席に最初にシロと妹が座った。その後ろの二つの席も空いていた。
そちらにはサクラが最初に座った。ユキトは"俺"の方をちらりと見てから当たり前のようにサクラの隣に座る。
"俺"は空席を探したが、ほとんどの席が埋まってしまっていた。
別に俺としては"俺"が立っていようが座っていようがどうでもよかったが、"俺"はきょろきょろと辺りを見回す。
やがて、声が掛けられた。
「ヒメくん」
「……部長?」
たしかに声の主は部長だった。俺は"俺"よりも少し早く彼女の存在に気付いた。
960: 2014/03/26(水) 01:22:17 ID:KLiDvTc.
部長は手招きしていた。どうやら彼女の座っている席の隣が空いているらしい。
"俺"は少しの逡巡(……したのだろう)の後、結局彼女の隣の席に腰かけた。
扉が閉まり、バスが発車する。サクラやシロたちとは離れた席に座ってしまったせいで、互いに声も聞こえない。
「部長もお祭りですか?」
「はい。ヒメくんは、佐藤くんと一緒みたいですね」
「ええ、まあ、あとは妹とか、親戚の子とか」
「ふうん。わたしは友達と待ち合わせしてるんです」
部長は私服姿だった。彼女もまた浴衣を着てはいなかった。
俺はそこから何かしらの意味を見つけ出そうとしたけれど、残念ながら何のヒントにもならなかった。
「休み中は、部活に顔を出すんですか?」
「一応、出れる限りは出ようと思ってますよ。ユキトの奴も、誘えるかぎりは誘うつもりです」
961: 2014/03/26(水) 01:22:59 ID:KLiDvTc.
「そうしてください。休み明けには文化祭もありますから」
「なにかやるんですか?」
「部誌を作ります。……休み前に説明しましたよね?」
「……そうでしたっけ」と"俺"はちょっと困ったような返事をした。
人の話を聞かない奴だ。俺にも覚えはなかったけれど。
「部誌か……」
"俺"は考え込んでしまった。何を考えてるんだろう? どうせくだらないことを考えてるに違いない。
「ヒメくんは、何か書きますか?」
「自由参加なんですか?」
「できれば参加してほしいですけどね。でもみんな好き勝手に書くでしょうし、好きなものを書けると思いますよ」
"俺"はまた黙り込む。
962: 2014/03/26(水) 01:23:58 ID:KLiDvTc.
「小説はどうですか? このあいだ、見せてくれたみたいな奴」
俺はちょっと緊張した。"このあいだ見せた"って、何の話だ?
「ああ、いや、あれは……あれは、人に見せられるようなものじゃないですよ」
「わたしには見せてくれたじゃないですか。……わたしは人じゃないと?」
「そういう意味ではなくて。あれは、なんていうか……恥ずかしいんです」
「でも、面白かったと思いますよ。"箱"の話」
俺は強烈な不快感を覚えた。どういうことだ? と自問する。
俺は部長にあの小説を見せたりしていない。
「『「木の船」のための素描』みたいで」
「……そんなにいいもんじゃないです。あれは、愚痴みたいなもんです」
何を言っているんだ? こいつは……。あれは俺が書いたんだ。
どうしておまえがそんなことを言える?
963: 2014/03/26(水) 01:25:23 ID:KLiDvTc.
「じゃあ、次に何か書くとしたら。どんなのを書きますか?」
"俺"はまた考え込んでいるようだ。
「思いつきでもいいですよ」
「……じゃあ、こういうのはどうですかね。ある高校生の男女ふたりがいるんです。
男の方は女の方が好きなわけですが、気持ちを伝えられずにいる」
「……はあ。どうして伝えてないんです?」と部長はちょっと呆れたみたいな顔で相槌を打った。
「さあ?」と"俺"は無責任に首を傾げた。
「そうだな。きっと勇気がないんじゃないですか。それまでの関係が壊れるのが怖いとか。
あるいは過去に手ひどい恋愛を経験していたとか、容姿にコンプレックスがあるとか。なんでもいいんですけど」
「……それで告白しないわけですか?」
「それまでは。でも、男の方は、そういう関係が嫌になってしまうんです。それで勇気を振り絞って告白する」
「どうして急に?」
「……まあ、何かのきっかけがあるんですよ。そうだな。女の周りに他の男子がうろつくようになって不安になるとか。
もしくは、もともとなんとかしたいと思っていたところに、何かの機会があってデートに誘ってしまうとか」
964: 2014/03/26(水) 01:26:15 ID:KLiDvTc.
「何かの機会?」
"俺"は少し黙った。また考えているみたいだ。
「たとえば、近隣で夏祭りがあるんですよ。今日みたいに。それで、きっかけを欲しがっていた男の子は、女の子を祭りに誘う」
「デートの誘いですね?」
「そうです。そして、その祭りか何かで気持ちを伝えようとするわけです」
「それでどうなるんです?」
「お祭りに行くんですよ、二人で」
「それで?」
「男が告白するんです。帰り際にでも」
「……それで?」
「女の子はそれを受ける。ふたりは付き合うようになる」
「……そのあとは?」
「"そのあと?"」と"俺"は不思議そうに繰り返した。
965: 2014/03/26(水) 01:27:17 ID:KLiDvTc.
「ありませんよ、そのあとなんて。そこで終わりです。ハッピーエンド。
付き合っていなかった男女が付き合う。それだけです。それ以上は蛇足ですよ。全部、蛇足です。
余計なもの。不要な描写。物語はそこで区切られて、ふたりは手でも繋いで、それでおしまい」
「……女の子は男の子が好きだったんですか?」
「たぶん、そうだったんじゃないですかね」
「どうして?」
「"どうして?"」と"俺"はまた不思議そうに繰り返す。
「人を好きになるのに理由なんていらないでしょう」と"俺"は一般論を言う。
部長は押し黙ってしまった。
「何かのきっかけがあったのかもしれないし、単に話が合って、一緒にいるのが心地よかったのかもしれない。
とにかく"彼女"は"彼"が好きで――二人は相思相愛だった。相思相愛の二人が結ばれる。
"そのあと"なんて、書いたって仕方ないでしょう? 男の子が勇気を振り絞った。それが報われた。それだけです」
"俺"はやけに饒舌だった。
その口ぶりにはどこかしら皮肉めいたものが含まれているような気もしたが、よくわからない。
966: 2014/03/26(水) 01:28:03 ID:KLiDvTc.
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
と部長は言った。
「どうぞ」と"俺"は促す。
「その話、おもしろいんですか?」
「さあ?」と"俺"はまた無責任に首を傾げた。
「……最近、ヒメくんは明るくなりましたよね」
部長は急に話を変えた。
"俺"は戸惑ったようだったけれど、俺は驚かなかった。なにせ会話に参加していないから。
「……そうですか?」
「はい。とてもいいことだと思いますよ。話しやすくなりました」
にっこり笑う。俺はその言葉に少しだけ傷ついた。"俺"がどう思ったのかは知らない。
967: 2014/03/26(水) 01:30:03 ID:KLiDvTc.
◇
バスが目的地に辿り着いて、大勢の人が一斉に吐き出された。
「それじゃあ、わたしは待ち合わせがあるので」と言って、部長はあっさりと去って行った。
ユキトやサクラにも挨拶をして。
「俺たちも行くか」と"俺"は言った。
「うん」と頷いたのはサクラだった。
不意に、手のひらに何かの感触が触れる。
"俺"は自分の腕を見下ろす。その先にはシロの手があった。
シロが"俺"の手を握っていた。
彼女はこちらを見上げている。……なんだ?
なにか、変だ。
シロの表情は、なんだか不安げだった。怖がっているみたいな。
それと同時に、もっと別の感覚がよぎった。
968: 2014/03/26(水) 01:30:52 ID:KLiDvTc.
"俺はこいつを知っている"、と俺は思った。
いつだったか、こんなふうに、こいつは俺のことを見上げていたことがある。
俺の手を握ったことがある。
懐かしさ? 罪悪感? よく分からない心の動きに支配されて、俺は記憶を探ろうとする。
けれどなにひとつ思い出せなかった。
落ち着けよ、と俺は頭の中で言う。親戚の女の子なんだ。こんなふうに手を繋いだことくらいきっとあるはずだ。
なにも不思議なことじゃない。そのはずだ。
俺は記憶のぐらつきに眩暈を起こしそうだったが、現実には"俺"の体は平然としていた。
「どうした?」なんてシロに向けて笑いかけている。
シロは自分が"俺"の手を握っていることに初めて気付いたみたいな顔をして、恥ずかしそうに顔を俯けた。
俺の意識はその光景を不自然なものとして受け止めたけれど、彼女は普通の女の子なのだ。そういう顔くらいするだろう。
「なんでもない。行こう?」
シロは笑う。そして、"俺"たちは並んで歩き始めた。人波の中へ。
971: 2014/03/28(金) 00:27:53 ID:3hWNNZ.A
◇
「ねえ、お兄さん」、とシロは言った。
「なに?」と"俺"は訊ねた。
「わたしね、思い出したことがあるの」
"俺"たちの声は、祭りの雑踏に飲まれて掻き消えてしまいそうだった。
「思い出したって、何を?」
「お兄さんの願いについて」
「……何の話?」
"俺"は怪訝そうな声をあげた。本当に何の話なのか分からないらしい。
俺もまた、シロが何を言い始めたのか、理解できなかった。
……咄嗟には。
じくじくと、意識が歪められていく。
972: 2014/03/28(金) 00:28:35 ID:3hWNNZ.A
「わたし、ずっと不思議だったの。お兄さんが"自分に都合の良い世界"を望んだとしたら。
……それを願ったなら、どうして、お兄さんは、"都合の良い世界"の中で、あんなに苦しんでいたのか。
自分に向けられる好意を信じずに、自己嫌悪を繰り返していたのか」
"俺"は黙った。とにかく最後まで訊いてから、判断する気になったらしい。
「だってそうでしょう? お兄さんは最初、心の底から自分に向けられる好意を喜んでいなかった。
本当は、そんなのおかしいの。だってわたしは願いを叶えていたんだから。
最初はうまくいかなかったのかと思ったけど……ひょっとしたら、って思った」
「……」
「わたしの役割は、人の願いをきくこと。訊き出して、叶えること。
つまり……スイッチを押す役目なの、わたしは。あくまで叶えるのは神様。本当はね。
神様は余計なことをしなくても大丈夫って言ってたけど、わたしはそんなのずるいって思ったから……。
せっかく力ももらえたわけだし、協力してあげようって思ったの。言いたいこと分かる?」
973: 2014/03/28(金) 00:29:14 ID:3hWNNZ.A
"俺"は首を横に振った。「何を言っているのかわからない」と思っていることだろう。
「つまりね、願いを叶える力には二種類あるの。願いを叶えると決めた瞬間に起きる、"神様の力"と……。
力を与えられたわたしが自分の意思で変化を起こす、"わたしの力"。
繰り返しは、"神様の力"ね。記憶も、"神様の力"だけど、繰り返しの中で維持できるのは、"わたしの力"」
俺の頭が、ぎりぎりと軋みをあげていく。でもそれは錯覚だ。
“俺”は平然と立っている。軋みを感じているのは、俺だけだ。
「でも、お兄さんの願いをきいたとき、"神様の力"は起こらなかった。
神様自身も、どんなことが起きるのか、いつも予測できないみたいだったけど、こんなことは初めてだって言ってた。
だからわたしは仕方なく、"わたしの力"でお兄さんの願いを叶えてあげてたの」
「……さっきから、何の話をしてるか、分からないんだけど」
"俺"たちは他の連中から随分離れたところを歩いてしまっている。
前の方からサクラが俺たちのことを呼んだ。妹がどこか落ち着かなさそうなようすでこちらを見ている。
俺はシロのさっきの言葉の意味を考える。"神様の力"と"シロの力"?
974: 2014/03/28(金) 00:29:49 ID:3hWNNZ.A
とっさに揺さぶられた記憶に、また意識が軋み始める。
シロは"俺"の中に俺がいることに気付いている。
何度も何度も同じことを繰り返してきた。記憶を思い出しては失ってきた。
そんなふうな繰り返しの中で、俺はついに体を動かすことすらできなくなってしまった。
「いいかげんにしろよ」と俺は言おうとしたが、残念ながら喉も口も従ってはくれない。
どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
俺が何をしたっていうんだ?
シロはその声が聞こえたみたいに言葉を続けた。
「"願い"っていうのは、"言葉"なんだよ」
どうしてだろう、シロは怯えているような気がした。
違和感。彼女は、何かに気付いたのだろうか。
「"言葉"を、わたしが聞く。わたしはそれを"解釈"する。その解釈を、"神様の力"で実現してもらう。そういう構造。
でも、これは、間違っていたのかもしれない。……どうしていままで気付かなかったんだろう」
975: 2014/03/28(金) 00:30:41 ID:3hWNNZ.A
俺は、自分がいつか考えたことを、思い出す。今になって。
"話者が語ろうとする「もの」「こと」は、代理物としての「言葉」という形をとる"
"言葉は言葉として他者の耳に入ったとき、話者の元から離れ、聞き手のものになる"
"聞き手は言葉を自分なりに咀嚼し、理解し、納得する"
"話者と聞き手との間には、「言葉」という一見同一のものを隔てた、大きな断絶が走っている"
間違っていたのかもしれない、とシロは言った。どういう意味だろう。
彼女はなにに気付き、なにに怯えているんだろう。
「わたしのせいなのかもしれない」とシロは言った。
「うまく叶えられなかったかと思ってたお兄さんの願いは、叶ってたのかもしれない」
「……ねえ、置いてかれそうだよ」
"俺"はそう言った。シロは柔らかく笑って短く首を横に振る。
騒がしい雑踏を"俺"たちは並んで歩いた。手を繋いだまま。
976: 2014/03/28(金) 00:31:38 ID:3hWNNZ.A
◇
"俺"たちは当たり前みたいに夏祭りを堪能していた。
リンゴ飴やら綿菓子やらお好み焼きやらの夜店。
知り合いに会ったり会わなかったりしながら、人ごみの中を歩いた。
べつに何ということはなくても、いつもと違う光景だというだけで、みんな態度がおかしかった。
はしゃいでいた。
けれど俺には、そういう光景が、なんだかけばけばしい電飾のようで、不愉快に見える。
外側から見れば――と俺は考える。
――だいたいのものは不愉快に見えるものかもしれない。
歩き疲れてみんなで少し休んでいると、シロが金魚すくいの店の方をじっと見つめていることに、俺は気付いた。
けれど"俺"は疲れていたし、ユキトやサクラと話していたしで気付かない。
視界の隅に、たしかに映っているはずのシロの表情を気に掛けない。
そういうものかもしれない。
「金魚すくいしたいの?」とシロに訊ねたのは妹だった。
シロは一瞬、きょとんとした顔をする。意外そうな。
977: 2014/03/28(金) 00:32:12 ID:3hWNNZ.A
「……べつに、そういうわけじゃ」
けれど視線は金魚の方を向いていた。横で会話を聞いていた“俺”が財布を取り出した。
それからシロの背中を押す。
「いいからやって見なよ」
「いいって」
「せっかく来たんだし、何もせずに変えることないだろ」
シロは諦めたみたいに溜め息をついた。“俺”と妹とシロが金魚すくいの屋台に向かう。
財布を取り出して“俺”は金を払う。シロは仕方なさそうに網を受け取る。
三人で屈みこんで、取りやすそうな金魚を選ぶ。
シロは真剣な顔つきで金魚を選んでいた。
妹はその様子を楽しそうにながめている。
978: 2014/03/28(金) 00:32:50 ID:3hWNNZ.A
なんとなく、分かった。
サクラが笑って、ユキトが笑って、妹が笑って、ひょっとしたらシロも笑う。
そんな世界があるとしたら、それは俺が“こうじゃなかった”世界なんだ。
いじけてばかりで、無責任で、身勝手で、優柔不断。
そんな俺みたいな存在は、いない方がマシだった。
だから、本当の意味で俺にとって都合の良い世界を作ろうとすると、俺という人間を世界から追い出さざるを得ない。
余計者、邪魔者。
そもそもからして、そうだったのだ。
俺がいなければ、母が氏ぬことはなかった。
俺がいなければ、サクラとユキトは何も気にせずに付き合うことができた。
「いなければよかった」はすぐに幾つも思い出せるのに、「いてよかった」と思えることはまったく思い付けない。
幸い、“俺”は上手くやれるみたいだ。いろんなことを。
だったら彼に任せて、俺は消えてしまいたかった。
俺よりも俺をうまくこなせる“俺”に全部を任せてしまいたかった。
網は少しだけ金魚の重みに耐えたけれど、結局すぐに破けてしまった。
983: 2014/03/29(土) 04:10:44 ID:Trg2spo.
◇
ビニールに入れられた金魚を店主から受け取ると、シロはしばらくじっとその金魚の目を見つめていた。
物言いたげなふうに。それに気付いたんだろう。"俺"はどうしたのかと彼女に訊ねた。
「かわいそうだね?」
とシロは言った。
たしかにね、と俺は思った。たぶん妹も"俺"も思ったことだろう。
それからシロは、なにかに気付いたみたいに辺りをきょろきょろと見回し始める。
「……あの二人は?」
"俺"は首を巡らせて、さっきまで全員で休んでいた場所に視線を向けた。二人の姿はない。
「はぐれちゃったね」、と妹は言った。"俺"は首を横に振ったようだった。
「いいんだよ、これで」
「……どういう意味?」とシロは訊ねる。
「最初からこういう予定だったんだよ」
「……予定?」と今度は妹が首を傾げる。
984: 2014/03/29(土) 04:11:22 ID:Trg2spo.
「ユキトと示し合せてたんだ。二人きりになれるように」
「……それ、どういうこと?」
シロが"俺"の方を睨んだ。"俺"は当たり前のように答えた。
「つまり、二人きりになりたいって言ってたから」
俺は答えを訊くより先に、その言葉を想像してしまっていた。
「それって……」
妹が、ちょっと戸惑った感じで"俺"を見上げた。たぶん"俺"は笑った。
「告白したいんだってさ」
「……いいの?」
妹は当たり前みたいに問い返す。
「いいのって?」
「だって、お兄ちゃんも、お姉ちゃんのこと……」
985: 2014/03/29(土) 04:12:18 ID:Trg2spo.
「ユキトもそう思ってたみたいだけど」と"俺"は言った。
「べつに俺はサクラのことを異性として好きだったってわけじゃないよ。元々。
居心地がよかったのはたしかだけど、それはユキトも含めてのことだし。サクラだってそうだと思うよ。
ただ、なんていうか、無条件で傍にいてくれる相手がいるっていうのが嬉しかっただけだ」
妹は何かを言いたげな顔をした。"俺"の言葉は、まるで俺自身の言葉みたいに聞こえた。
「……でも、そんなことになったら、今まで通りではいられないんじゃない?」
「だからって、いつまでも一緒にいるってのも変な話だろ。
それに、もし二人が付き合うことになったって、距離を作るような奴らじゃない。
自然と距離が開けたって、べつに喧嘩するわけじゃないんだ」
妹は俯いて何かを考え込んでしまったようだ。
"俺"の言葉を聞きながら、自分がしたことについて考えた。
986: 2014/03/29(土) 04:13:41 ID:Trg2spo.
◇
俺がユキトとサクラを避けるようになった理由は、"俺"の言葉と、まったく同じだった。
ユキトがサクラに好意を抱いていたことは知っていた。それを隠そうとしていることにも気付いていた。
サクラもまた、ユキトのことが好きだった。ずっと昔から。俺はちゃんと知っていたのだ。
小学六年の、バレンタインの日のことを思い出す。
三人で集まっていたとき、サクラは俺たち二人に義理チョコを渡してきた。
俺たちは当たり前みたいに受け取ってはしゃいでいた。
サクラがその後、俺の目を避けて、ユキトにもうひとつ、別のチョコを渡していたこと。
見て見ぬふりをしたけれど、俺はずっと前から知っていたのだ。
ユキトともサクラも、互いの気持ちには気付いていなかったみたいだけど。
俺はずっと知っていた。知ったうえで、見て見ぬふりをしていたのだ。
ぬるま湯の関係で居続けたくて。
でも、ユキトが変化を求めていることも、サクラが揺らいでいることも、なんとなく分かっていた。
987: 2014/03/29(土) 04:14:27 ID:Trg2spo.
こうすればよかったんだな、と俺は思った。
"俺"がしたように、ユキトとちゃんと話をして、示し合わせて、機会を与えてやればよかったんだ。
そうすれば、いつか終わるとしても、ちゃんと関係を続けていくことだってできたんだ。
たとえ関係が変わったとしても。
あんなふうに、避けたりしたのは、どう考えたって失敗だった。
俺はただ、ふたりが離れていくことを肌で感じて、それを恐れていた。
それでも、その事実をどうにかして受け入れないわけにはいかなかった。
ずっと変わらない関係なんてありえないから。
俺はふたりを失うのが怖かった。
自分の居場所をなくして、ひとりぼっちで放り出されるのが不安だった。
自分一人で新しく誰かと関わっていけるなんて思えなかった。
自分がひとりぼっちになってしまうような気がした。
俺はひとりが怖かった。
988: 2014/03/29(土) 04:15:05 ID:Trg2spo.
◇
「……待ってよ」、と、シロが言った。
「待って」と繰り返す。妹も"俺"も、言葉に吸い寄せられるようにシロの方を見る。
彼女はビニールの中で泳ぐ金魚を指先に提げながら、混乱したような顔をする。
「そんなの、聞いてない」
「……シロ?」
何の話をしているのか、というふうに、"俺"は彼女の名前を呼ぶ。
「そんなの、頼んでない。そんなふうにしてなんて、言ってない。わたしは……」
"俺"と妹は顔を見合わせた。シロの様子が目に見えて変わっていく。
ぎりぎりと、頭は記憶を絞り出していく。彼女の力について。繰り返しについて。俺は思い出していく。
これまでのことを、全部、思い出せている。
だから俺には、彼女の混乱の理由がよく分かった。
「何を言っているんだ?」と"俺"は言う。けれど無駄だ。
肉体を操っている"俺"は、繰り返しの記憶を持っていない。
989: 2014/03/29(土) 04:15:45 ID:Trg2spo.
「どうしてこうなるの?」とシロは言った。それから俯いて、泣きだしそうな顔をする。
「シロ、どうした?」
"俺"は訊ねた。妹も、心配そうな顔で彼女を見ている。
夏祭りの人ごみは、俺たちを差し置いて楽しげだった。
子供のはしゃぐ声があちこちから聞こえる。
「……あの二人から、離れちゃダメなんだよ」
シロは、泣いているように見えた。
「……シロ?」
「……このままじゃ、氏んじゃう」
"俺"は真面目な声で問い返す。シロの言葉はまともじゃなかったけど、シロの態度も普通じゃなかった。
不穏で、根拠のない言葉。そのはずなのに、"俺"はそれを笑い飛ばしもしない。
「氏ぬ? ……誰が?」
990: 2014/03/29(土) 04:16:27 ID:Trg2spo.
「――ゆき兄が、氏んじゃう」
ゆきにい、とシロは言った。"ゆき兄"。
その呼び名は、俺を混乱させた。
ゆき兄。ユキトのことだ。どう考えても。それは分かる。ユキトが氏ぬ?
俺の頭の中の、奇妙に冷静な部分が、静かに情報を連結させた。
このタイミングでユキトが氏ぬということは、シロが回避しようとしていたのは、ユキトの氏だったということか。
だとすれば、この繰り返しは、ユキトの氏によって起こっていたのか。
ユキトが氏ぬ?
どうして?
「どうして? わたしはちゃんと、こうならないようにしていたはずなのに……」
「落ち着け、シロ。おまえ、何を言ってるんだ?」
"俺"はシロに冷静になるように促す。俺は必氏に、自分自身で肉体を動かそうとする。
けれど自分の意思じゃ指一本動かせない。
991: 2014/03/29(土) 04:17:16 ID:Trg2spo.
「やっぱり、わたしのせいなの? わたしが――」
「――落ち着けって!」
"俺"は怒鳴った。シロは怯えたように身を竦ませて、"俺"を見上げる。
「いったいどうしたんだ? ゆき兄ってのはユキトのことか?」
シロは"俺"の目を見つめながら、苦しそうに頷く。
「ユキトが氏ぬって、どういうことだ?」
「……このままじゃ、そうなるの。ゆき兄は、今日、氏ぬはずなの。
だからわたしは、"はる兄"の願いと、"さくら姉"の願いをうまく重ねて、それをなかったことにしようって思った」
――さくら姉の願いによる"繰り返し"に、はる兄の願いをうまく誘導すれば、事実を変えられるかもしれないって。
――ゆき兄さえ生き延びてくれれば、世界の"巻き戻し"も起こらないはずだから、そういう形で世界が確定するって。
――だから、ゆき兄が生き延びることを、はる兄が望んでくれたら、世界はそういう形に進むはずだって思った。
――"ゆき兄が生きている世界"は、"はる兄にとって都合の良い世界"でもあるはずだから……。
でも、と彼女は続けた。
――でも、わたしは間違えてたのかもしれない。
992: 2014/03/29(土) 04:18:19 ID:Trg2spo.
「……話はまったく分からないけど、とにかくユキトが危ないってことか?」
"俺"は、そう訊ねた。シロはおとなしく頷いた。
「タチの悪い冗談じゃないんだよな?」
シロは再び頷く。
「……じゃあ、わけが分からないけど、とにかくふたりを探そう。そう遠くには行ってないはずだし」
シロは、怯えたみたいに、"俺"を見上げた。
「……ねえ、はる兄」
「それ、俺のこと、なんだよな?」
"俺"は戸惑ったように首を傾げる。
「なにも、思い出さないの?」
「なにもって、なんのこと?」
「わたしは、さっきからずっと、繰り返しのこと、思い出してもらおうとしてるのに――どうして、思い出さないの?」
2: 2014/03/29(土) 04:26:32 ID:Trg2spo.
「何の話だよ?」
"俺"は苛立ったような口調でシロに問いかける。
シロは起こっていることが理解できないみたいに周囲をあちこち見回し始めた。
俺は、記憶を取り戻している。だから、シロはたしかに、俺の認識を元に戻すことに成功している。
けれど、俺の体を支配しているのは"俺"であって俺じゃない。
これはシロの力によるものではなかったのか? だとしたら、どうして俺の意識は分裂しているんだ?
「……とにかく、二人を探そう」
"俺"はそう言った。妹はすぐに頷いた。シロはまだ混乱しているような様子で俯いている。
"俺"は彼女の手を取った。
―-願いを叶える力には二種類あるの。願いを叶えると決めた瞬間に起きる、"神様の力"と……。
―-力を与えられたわたしが自分の意思で変化を起こす、"わたしの力"。
シロの力じゃないとしたら……でも、"願いを叶えると決めた瞬間"という項目には反する。
シロが何かを勘違いしてる?
あるいは、俺の知らない、シロがまだ説明していない要因が存在する?
3: 2014/03/29(土) 04:27:49 ID:Trg2spo.
夏祭りの雑踏を、俺たちは駆け抜けていく。あちこちを見回しても、二人の姿は見つからなかった。
――俺はシロに、"俺がこうじゃなかったら"の世界を見せてほしい、と頼んだらしい。
――どうして『見せてほしい』だったんだろう。
"見せてほしい"?
――"言葉"を、わたしが聞く。わたしはそれを"解釈"する。その解釈を、"神様の力"で実現してもらう。
……そうだ。
叶える願いを決めるとき、シロは言葉を聞いて、それを自分なりに解釈して、神様の力を作用させていたらしい。
だとするなら、そのシロの"解釈"が間違っていた場合、どうなるのか。
願いもまた、その誤った解釈に則して実現されるんじゃないか。
"見せてほしい"という願いだったはずなのに、シロは俺に、"こうだったら"の世界を、実際に体験させていた。
あれは、"神様の力"とはべつに、"シロの力"で行っていたことだった。
つまり、シロは、"見せてほしい"という言葉を、"実際の現実として起こしてほしい"と解釈していた。
4: 2014/03/29(土) 04:28:38 ID:Trg2spo.
――でも、これは、間違っていたのかもしれない。
シロはそうも言っていた。
つまり、彼女は自分自身の解釈に疑問を抱いたのだ。
そして、もっと信憑性のある、正しいと思える解釈を見つけ出した。
彼女の"解釈"は、そちらに傾いていった。
"見せてほしい"という言葉は、そのままの意味で、"見せてほしい"だったのではないか、と。
根拠はないし、唐突だ。理屈になっているかどうかだって怪しい。
でも、今の俺の意識のありかたを見ると、そうとしか考えられない。
俺は今、まさしく、そのままの意味で、"自分がこうじゃなかったら、の世界を見ている"。
シロの解釈が変わったことで、"神様の力"も、願いの叶え方を変えたのか?
そんなことがありうるのかは分からないけれど、そうじゃないとこの状況に説明がつかない。
5: 2014/03/29(土) 04:29:16 ID:Trg2spo.
バカみたいだ。どうしてこんなことになるんだ?
俺は今すぐに俺の体を取り戻して走り回りたかった。
そして自分の足でユキトの姿を見つけたかった。見つけて安心したかった。
ユキトが氏ぬなんて嘘だ。
でも、俺の体はまったく俺の思う通りに動いてくれない。身動きが取れないのと同じだ。
もどかしくてたまらない。何もかもが徐々に手遅れになっていくような気がする。
シロが走りながら嗚咽をこぼしている。ユキトの姿は見つからない。
すぐ近くには姿がなくて、"俺"はようやくポケットから携帯を取り出して電話を掛けた。
電源が切れてる。今度はサクラの方に掛ける。こっちはちゃんと呼び出し音がなった。
コール音をやけに長く感じる。一秒一秒が奇妙な重みをもっている。
雑踏が耳障りで、音が聞き取りにくい。"俺"は苛立ちまぎれに舌打ちする。
電話は留守番サービスに繋がった。
6: 2014/03/29(土) 04:29:58 ID:Trg2spo.
「……はる兄」
不安そうに、シロは"俺"を見上げた。
その、心細そうな声とまなざしが、俺の記憶のどこかをかすかに刺激して、通り過ぎていく。
「……助けて」
祈るような声。
どうしてこんなときに限って、俺の体は俺の言うことをきかないんだ。
どうしてふたりの姿を見つけられないんだ? どうしてふたりは電話に出ないんだ?
まるで、何もかもが大きな力によって歪められているみたいだ。
頭の中でどれだけ毒を吐いたって、俺は身動きもとれなかった。
"俺"はシロを妹に任せて、ひとりで雑踏の中を駆け抜けた。
とにかく通りの端から端まで走り抜ける。
ふたりの名前だって呼んだ。何度も。大声で呼んだせいで近くにいた家族連れが顔をしかめたくらいだ。
けれど答えはどこからも帰ってこない。俺は顎に垂れた汗を手の甲で拭う。
7: 2014/03/29(土) 04:31:13 ID:Trg2spo.
「ヒメくん?」と部長の声がした。
「部長、ユキトたちを見ませんでしたか?」
"俺"は彼女の言葉の続きを待たずに訊ねた。
彼女は戸惑いながらも、こちらの態度に切迫した何かを感じたようで、すぐに答えてくれた。
「見かけましたよ。ちょっと前に、あっちの方に歩いていきました。ふたりで。……はぐれたんですか?」
彼女の指の先には、出店の並ぶ通りからはずれた裏通りがあった。
古い家々が立ち並ぶ街並みを、縫うように流れる石造りの川。
それに沿って長く伸びる、灯りの少ない暗い夜道。
人気がまったくないわけじゃないけど、今時間になるとさすがに暗い。
俺は部長に礼を言ってから、彼女が示した方向に駆け出した。
8: 2014/03/29(土) 04:31:54 ID:Trg2spo.
息苦しさを、俺は感じている。肉体の感覚を、ちゃんと持っている。
意思だけが、欠けている。連結が途絶えている。乗っ取られているのだ。
速く走れよ、と俺は思う。もっと速く走れ。
そこかしこから垂れ下がる枝垂桜の枝葉が、薄暗さの中で異様に不気味だった。
「ユキト!」と俺は叫んだ。叫んでから、自分の足が止まっていることに気付いた。
足を動かす。動く。なぜだろう? 俺は急に肉体の操縦桿を取り戻した。
そして立ち止まっていることに気付き、すぐに走り出す。
肉体を取り戻せた理由はなんだっていい。
とにかく暗い道をひたすらに走る。この道はこんなに長かったっけか?
息はすぐに切れたし、汗はいくら拭っても絶えなかった。全身を消えない寒気が支配していた。
道はいくつもの枝道に分かれていたけれど、俺はずっとまっすぐに進み続けた。
彼らはまっすぐ進んだはずだと、俺はなぜか確信していた。
9: 2014/03/29(土) 04:32:48 ID:Trg2spo.
この道の先は、大通りの見通しの悪い交差点に繋がっている。
そう思い出した途端、いやな予感があった。
祭りの日なんだ、と俺は思った。
誰だって注意深く運転する。歩行者だってたくさんいるはずだし、そんなにスピードを出す車なんて多くないはずだ。
――でも、ないなんて言えるか?
ありえないなんて、言えるのか?
それはありえないことじゃない。
そして、それが起きるのが"今日"じゃないなんて、そんなこと、誰にも断言できない。
暗い道の先に、光が見える。大通りの灯り。行き交うヘッドライト。
暗闇から光に躍り出た俺の視界は一瞬まばゆさに潰される。
白い逆光に包まれた景色の中、誰かの背中が車道に飛び出す姿を、俺は見た。
10: 2014/03/29(土) 04:33:45 ID:Trg2spo.
「ユキト!」
と叫んだのは俺じゃなくてサクラだった。
俺はサクラに駆け寄りながら彼女の名を呼んだ。彼女は俺の名を呼んだ。
そして俺に、"誰か"が飛び出した方を見るように示した。
「ユキトが……!」
でも、俺たちが再び視線をそちらにやったときには、彼のすぐ傍まで、車がやってきていた。
飛び出してきた歩行者に驚いたのだろう、車は大きく揺れ動き、進む方向を見失った。
けれど、逃れられない引力でもあるみたいに、ヘッドライトが影を吸い込んでいく。
鈍い音がして、俺の視界の中から外へ――ユキトの体が跳ね飛ばされる。
その光景はすごく間抜けだった。コントみたいだった。悪い冗談みたいに。
一瞬、時間が止まったような気がした。その一瞬を、とてもとても長く感じた。
すぐに、混乱した鋭い音がそこかしこから響き始めた。思い出したみたいに。つじつま合わせみたいに。
ヘッドライトがあちこちを照らす。何台もの車が進むのをやめる。怒声とクラクション。
騒々しいオーケストラ。現実感のない光景。
11: 2014/03/29(土) 04:34:45 ID:Trg2spo.
「……ヒメ」とサクラは俺を呼んだ。俺は答えられなかった。
「ヒメ、ユキト、ユキトが……」
声が震えていたのか、震えていなかったのか、それすら分からない。
辺りの声は無関係の雑音になる。人々が一ヵ所に集まっていく。どこかにぶつかった車が渋滞を作り出す。
誰かが呻き声のような悲鳴をあげた。救急車、救急車、と誰かが叫んでいた。
足は根を張ったみたいだったけど、動けなかったのはそれが理由じゃない。
意識に靄が掛かっていた。
現に起こっていることを受け止めることができなかった。
「猫が」、とサクラは言った。
「猫が、いたの。交差点のまんなかに。猫が。怪我をしてたみたいで、逃げられなかったみたいで。
車の前に、飛び出したまま、足を引きずって、それを見つけたユキトが……」
ユキトが。
ぐらぐらと、地面が揺れている。
12: 2014/03/29(土) 04:35:29 ID:Trg2spo.
ヘッドライトの光。暗い道。騒がしい人ごみ。まるでお祭りみたいだ。
背中には暗闇。喧騒は皮膜越しに感じるように曖昧だった。
誰かが叫んでいる。助けを求めている。
俺は、そちらに、首を巡らせる。
遠目で、暗がりで、よく見えないけれど、そこには、"何か"が、転がっていた。
パイプオルガンの音色と、赤い絨毯の幻覚。
劈くようなクラクションと、赤い血だまり。
ああ、ダメだ、と誰か怯えたみたいに言った。
これは、助からない。咎める声もあがらなかった。
耳鳴りと眩暈。
光の明滅。
13: 2014/03/29(土) 04:37:13 ID:Trg2spo.
「嘘だ」、とサクラは言った。
「こんなの、嘘だ。嘘だよね?
だって、言ってたもん。たくさん時間があるって。思いつくこと、全部できるって。
さっきまで、今の今まで、言ってたもん……」
不意に、視界が、歪み始める。
「……こんなの、嘘だ」
光の明滅、収斂。歪む視界。
雑多な音が響いている。
それは意味を失っていた。
音は、単なる空気の震えで、景色は、光のかけらだった。
何もかもが意味を持たず、ただ曖昧に混じり合っている。
世界は影絵の中だった。
ノイズが走る。視界が黒く染まる。暗転。
14: 2014/03/29(土) 04:38:04 ID:Trg2spo.
◆
――沈黙。
21: 2014/03/31(月) 03:10:18 ID:sFDdS3kY
◆
――ひかり。
沈黙の覆う暗闇の中を、目を覆うような、光が、差す。黒く染まった視界を破り、目を灼く、光。
澄きとおる白い光。瞼から零れそうなほどに注ぎ込み、あふれる、光。
散らばった光の波は、たしかに何かの形をとっていたはずなのに、そこから意味を抽出することはできない。
光のかけら。
「――――――――」
音。
空気の震え。単なる振動。音。
けれど、それは単なる音ではないような気がした。
ばらばらになって、曖昧に溶けた、意味のない景色。
光景が、色彩を取り戻していく。
光のかけらが、意味を取り戻し、景色を形作っていく。
音が声になる。
22: 2014/03/31(月) 03:10:53 ID:sFDdS3kY
けれど声は、言葉ではなかった。
ふと気付くと、俺はバス停のベンチに座っていた。
目の前を横切る道路は太陽に照らされ、熱を宿している。
太陽の光が、空から差している。見上げると、何もかもを吸い込むような青い空が頭上を満たしていた。
誰かが、傍で泣いている。
俺は隣に座る誰かの方を見た。
そこには、見覚えのある少女が座っている。
「……泣いてるのか?」
すぐ隣で、シロが泣いていた。
「……はる兄」
と、彼女は俺をそう呼んだ。
23: 2014/03/31(月) 03:11:52 ID:sFDdS3kY
「……はる兄、わかったよ、ぜんぶ」
頭の中の記憶を洗いざらい探ってみても、俺のことをそう呼んでいた人のことを、俺は思い出せなかった。
そんな人は、どこにもいなかった。
それなのに、なぜだろう。いつか、こんなふうに彼女と過ごしたことがあるような気がする。
うだるような夏の熱気と、蝉の鳴き声の中で、誰かが俺の隣で泣いていたような気がする。
世界から人が消えてしまったかのような、静寂と蜃気楼の中で、誰かが、俺の隣で泣いていた。
「わたしがやっていたこと、ぜんぶ、分かっちゃった。
ずっと、わたしは、勘違いしてたんだ。はる兄、わたしは……」
彼女は、泣きながら笑った。ばかばかしくてたまらない、というふうに。
「わたしが、ゆき兄を頃したんだ」
24: 2014/03/31(月) 03:13:59 ID:sFDdS3kY
◇
彼女の声は蝉の鳴き声のなかに溶けてしまった。
じりじりと、途切れたり、響いたり、辺りを埋め尽くす蝉の合唱。
俺たちはその場にいつまでも取り残されていた。
「どうして、そう思ったんだ?」
シロは、俯いて、またぽろぽろと涙をこぼしはじめる。
彼女はとても悲しんでいる。
「ユキトは、車に轢かれていたな」
俺の頭は、その光景を、しっかりと覚えている。
「どうしてきみが頃したことになるんだ?」
25: 2014/03/31(月) 03:14:47 ID:sFDdS3kY
俺の声に、目元をわずかに拭いながら、彼女は顔をあげた。
「はる兄、わたしは、はる兄たちのこと、思い出したの。本当に、ついさっき。
ずっと、あやふやだった。思い出せるところもあったけど、そのイメージはぼんやりしてたの。
それを、今、思い出した。今までずっと、忘れてた」
「シロ……?」
「はる兄は、わたしのことを思い出せないだろうけど。わたしのことなんて、分からないだろうけど」
縋るような瞳で、彼女は俺を見つめた。その瞳は、わずかに俺の記憶を刺激する。
でも、なにひとつ思い出せなかった。
「……でも、今はそんなこと、関係ないか」
彼女は自嘲気味に笑った。俺は急に悲しくなった。
景色はなにひとつ動かない。今はもう、この街には誰もいない。
飛行機は墜落してしまった。
26: 2014/03/31(月) 03:15:54 ID:sFDdS3kY
「はる兄、わたし、いくつか、嘘をついてた。
たくさん嘘をつきすぎて、どんな嘘をついたのか、自分でも分からないけど、ひとつだけ、思い出したことがある。
はる兄……さくら姉の願いは、『ゆき兄を生き返らせること』じゃなかったんだよ」
俺は黙り込んだまま、彼女の話に耳を傾ける。世界からは人の気配が消えてしまっていた。
蝉の鳴き声と夏の陽射し、蜃気楼に歪むアスファルト、ぬるい風。
俺たちは、引き伸ばされて停滞した世界に取り残されている。
「自分でも、どうして嘘をついていたのか、分からなかったけど、今、分かった。
わたし、さくら姉の本当の願いを教えたら、はる兄がきっと傷つくって思ってたんだよ」
「……俺が、傷つく?」
「さくら姉はね、ゆき兄のことが好きだったんだよ。
もちろん、はる兄のことも大事だったけど、でも、ゆき兄のことを、好きだったんだよ、きっと」
「……知ってるよ、それはもちろん」
「だからね、さくら姉は、はる兄のことを諦めたの。はる兄が自分たちを避けるようになったことを、仕方ないって。
でも、せめて、ゆき兄とは一緒にいられますように、って、そう願ったんだよ。
ゆき兄と、できるかぎり長く、当り前の日々を過ごせますようにって。当然のような日々が、続きますように、って」
「……そっか」
27: 2014/03/31(月) 03:17:22 ID:sFDdS3kY
けれど、ユキトは氏んでしまう。願いは人の氏を覆せないから、願いは巻き戻しという形で維持される。
そういう意味では、サクラの願いはずっと叶っていたのか。
……でも、それって変じゃないか?
願いの力は、既に起こってしまった人の氏を覆すことはできない。
でも、これから起こる誰かの氏を避けることも、できないんだろうか?
そんなこともできない願いが、いったいどんな願いを叶えられるっていうんだ?
「はる兄、さっきまでの"世界"の中で、わたしは、はる兄の意識に働きかけることができなくなった。
はる兄にいくら思い出してもらおうとしても、ぜんぜん叶わなかった。そのことを覚えてる?」
「うん。……身動きが、とれなくなってた」
けれど、今は、変な話だけど、体がちゃんと俺に従っている。
そもそも、ここはどこなのだろう? 考えてから、どこでもいいような気がした。
たぶんここは、繰り返しの一部でもなく、現実でもなく、世界ですらない、ただのイメージ。
静止した一瞬に割り込んだ走馬灯のような場所。そういう実感があった。
28: 2014/03/31(月) 03:19:06 ID:sFDdS3kY
「どうしてなのか、考えてみたの。どうしてわたしの思い通りにいかないんだろうって。
それでね、やっと分かった。わたしよりももっと大きな力によって、世界があらかじめ変えられていたんだって。
だから、決められた結果が揺るがないように、はる兄の意識や認識も、わたしの手では歪められなかったんだ」
「……もっと大きな力?」
「はる兄は、わたしに願いを言ったときのこと、覚えてる?」
俺は、いまだに、繰り返す前の、現実の世界のことを思い出せずにいる。
どうしてなのかは分からない。……なぜ、忘れているのか、それさえも分からない。
「はる兄は、わたしに『自分がこうじゃなかったら』の世界が見たいって言った。
公園のベンチで、わたしたちは話をしてたんだよ。はる兄は、思い出せないみたいだけど。
願いを言ってくれるまで、わたしたちは毎日みたいに公園で顔を合わせてた。
猫を膝の上にのせながら。はる兄は、はる兄のことを思い出せていないわたしに、毎日みたいにお菓子をくれてた」
餌付けするみたいに、とシロは言った。どうしても、現実の記憶を取り戻すことができない。
「そんなふうに毎日顔を合わせて話してるうちに、わたしたちは、ゆき兄とさくら姉がふたりで歩くのを見かけたんだ。
はる兄は、自分に気付く素振りもみせず道を歩くふたりの姿を、遠くを見上げるみたいな目で見つめてた。
そして、言ったの。『自分がこうじゃなかったら』の世界が見たいって」
29: 2014/03/31(月) 03:20:19 ID:sFDdS3kY
はる兄、と俺のことをそう呼ぶ、目の前の少女のことを、俺はまだ思い出せずにいる。
記憶は厳重に封印されているのか、あるいは掠れて見えなくなってしまったのか。
俺は彼女のことを知っているはずだ。そういう印象が、たしかにある。
でも、思い出せない。頭をよぎる何かすらない。それが突然悲しくなった。
「わたしは、そのとき、はる兄がはる兄だって、分かってなかった。
さくら姉のことも、ゆき兄のことも、忘れてた。
わたしの記憶はとっくに曖昧になっていて、自分の名前すら思い出せなかったから」
蝉の鳴き声が、一瞬だけ止んだ気がした。
「だからわたしはね、はる兄の願いを、言葉の通りには受け取らなかった。
はる兄はきっと、さくら姉のことが好きで、だから、自分に都合のいい世界を望んだんだって、そう思った。
自分の望むように、世界を変えてほしいんだって、そう思った。自分がさくら姉の隣にいられるように。
『自分がこうじゃなければ』っていうのは単なる手段で、『誰かが隣にいること』が願いなんだって思った」
わたしは、そんなふうにスイッチを押した。
蜃気楼で歪んだ夏の道路の上に、シロの言葉はそっけなく放り投げられた。
30: 2014/03/31(月) 03:21:32 ID:sFDdS3kY
「その願いはうまくいかなかったんだって思った。すぐには何も起こらなかったから。
でも、起こってたんだよ。どうして気付かなかったんだろう?
さくら姉の願いを叶えた以上、他の要因がないかぎり、ゆき兄が氏ぬはずなんてなかったのに」
彼女は、頬を伝う涙をまた拭った。
「ゆき兄は、はる兄の願いの影響で氏んでいたんだよ。
はる兄の願いを、"神様の力"は、ゆき兄を頃すことで叶えようとしたんだ。
はる兄の願いを叶えた上で、さくら姉の願いを叶え続けるために、世界は巻き戻されていたんだ」
ああ、そうか、と、俺は納得してしまった。
「だから、ゆき兄の氏を覆そうとしても、ずっとうまくいかなかったんだと思う。
おかしいと思ってたんだよ。どれだけ世界に変化を加えても、ゆき兄の氏だけは揺るがなかったから。
まるでそこにすべてが収束してるみたいに」
じゃあ、俺が自分の体を動かせなくなっていたのは、解釈が変わったからじゃなくて。
シロの誘導でユキトの氏が覆るのを、"神様の力"が妨げただけだったわけだ。
31: 2014/03/31(月) 03:22:12 ID:sFDdS3kY
蝉しぐれは、気付けば止んでいた。全身から、力が抜けていく。
ぐらぐらと、地面が揺れているような気がした。
「……俺が、頃したのか」
「わたしが、受け取り方を間違ったんだよ。だってはる兄が、今のわたしなら分かるけど、はる兄が……。
はる兄が、ゆき兄なんていなければよかったなんて、そんなこと、願うわけないんだから」
彼女の言葉は、もう耳には入ってこなかった。
「俺が頃したんだ。また、俺のせいで人が氏んだんだ。母さんのときみたいに」
「わたしが、スイッチを押したんだよ。ナイフで刺したときみたいに」
「スイッチを押させたのは、俺だ」
「……はる兄」
「……ばかみたいだ」
32: 2014/03/31(月) 03:23:49 ID:sFDdS3kY
「はる兄がゆき兄を頃したわけじゃない。……そうでしょう?
それは結果的に起こってしまっただけのことで、はる兄の意思じゃなかった」
「意思なんて問題じゃない。俺が頃したんだ。ユキトは俺のせいで氏に続けていたんだ。
そこに悪意があったかどうかなんてどうだっていいことだよ。事実として、ユキトは氏んでしまったんだ。
俺はユキトの氏を前提にした世界の中で、バカみたいに誰かに好かれている妄想をして遊んでたんだ。
都合の良い願いなんてもので自分の境遇を歪めようとしたせいで、ユキトが氏んだんだ」
俺という人間の快楽のために、理不尽な炎に焼かれて氏んだユキト。
「俺はただ、あいつみたいになりたかったんだ。あいつに憧れてたんだよ。
あいつみたいに、いろんなことを素直に感じてみたかった。灰色めいたフィルター越しの視界じゃなくて。
綺麗なものは綺麗だって、楽しいことは楽しいって、心の底から笑いたかった。ばかみたいに不機嫌な顔なんてしないで」
いつかユキトが言っていたみたいに。
「こんな日が続けばいいのに」と、過ぎ去るのが惜しくなるくらいに、日々を鮮やかに感じてみたかった。
33: 2014/03/31(月) 03:24:24 ID:sFDdS3kY
「……どうして俺は、まだ生きてるんだ?」
「……はる兄」
「どうして、俺が、生きているんだ?」
「はる兄」
「さっさと氏んでればよかったんだ」
「……はる兄!」
「俺なんていなければよかったんだ。生きてたって誰かを傷つけるだけなんだよ。誰かの邪魔をするだけなんだ。
結局俺はユキトみたいに生きられないんだ。あいつと俺とじゃ根っこから違ってるんだ。
俺が誰かを幸せにするなんて無理だ。誰にも何もしてやれない。誰も俺のことなんて好きにならない。
結局どうしようもなかったんだよ。なにひとつ上手くは回らないんだ。
他力本願に事実を歪めようとして、好きだった友達まで氏なせて……誰かを苦しめてばかりだ」
もう涙も、呆れた溜め息も、出てこない。
誰かを傷つけるのは嫌だ。苦しめるのは嫌だ。
生きているのが、怖くてたまらない。
34: 2014/03/31(月) 03:25:00 ID:sFDdS3kY
「……ねえ、はる兄、信じてくれる?」
掠れた声で、シロは言う。
「わたし、はる兄を、不幸にしたいわけじゃ、なかったんだよ」
「……わかってるよ」
「わたしは、願いを叶えられるのが、うれしかったんだよ。
わたしの力で、誰かを幸せにできるかもしれないって思って。……でも、考えなしだったね」
「きみのせいじゃないよ」と俺は言った。
「違う」と彼女は即座に否定する。
「わたしのせいなの」
俺はそれ以上何も言えなかった。
35: 2014/03/31(月) 03:25:44 ID:sFDdS3kY
「わたしは、結局、自分に与えられた力の大きさを理解していなかったんだね。
それがどんなふうに物事に影響しうるのか、考えてなかったんだ。
でも、そんなものをわたしは、これまでずっと、ずっとずっと、気付かずに行使し続けていたんだよ。
そう思うと、わたしは、怖くてたまらない。……もう、力を使うのが、怖くてたまらない」
シロはもう、泣いてもいなかった。
俺たちはそれぞれの沈黙の中にいた。隣り合って座ってはいたけれど、たぶん、考えていたのは自分のことだけだ。
「……もう、生きるのはやめようか?」
不意に、シロはそんな言葉を呟いた。
「……え?」
俺は、思わず訊きかえす。彼女の言葉の意味が、うまく掴めなかった。
「この繰り返しの日々に、ずっと留まるの。この日々で起こっていることは、すべて、既に起こったことだよ。
誰かの氏も、誰かの傷も、ぜんぶ、既に、起こってしまったことなの。それは覆らない。
だけど、この繰り返しの中にずっと留まっていれば、少なくとも、新しい氏は、もう、存在しない。
新しく、誰かが傷つくこともない。この繰り返しの中にいれば、わたしも、はる兄も、もう誰も傷つけずに済む」
36: 2014/03/31(月) 03:26:53 ID:sFDdS3kY
わたしはもう、何もかもが怖くてたまらない、と、シロはそう言った。
「……ほんとうに、誰かを苦しめるつもりなんか、なかったんだよ。
でも、わたしが何かをすることで、誰かが苦しむなら、わたしはもう、何もかもやめにしてしまいたい」
その言葉は、今の俺には、よく理解できた。
その気持ちも、痛いくらい分かった。俺だってもう、身動きをとるのが、怖くてたまらない。
消えてしまいたい。
でも、だからこそ、
「ダメだ」
と、そう答えた。
シロは、苦しげな顔で俺を見上げた。
「ダメだ。このままじゃ、ダメなんだよ。
俺たちは、俺たち自身の感情の始末というものを、何か大きな力に任せちゃダメなんだ。
そもそもそこからして、間違っていたんだよ。これ以上誰かを苦しめたくないとか、そんなのは、俺のエゴだ。
俺のエゴなら、俺ひとりで処理しなきゃいけない。首でも吊って、実現するしかない。
そんなばかばかしい願いひとつの為に、世界そのものを忽せにするわけにはいかないんだ」
37: 2014/03/31(月) 03:27:31 ID:sFDdS3kY
「でも、それは、既に起こってしまったことなんだよ。
既に起こってしまったことをなかったことにすることで、また誰かを傷つけるかもしれない。
誰かを頃してしまうかもしれない。それは、世界を忽せにすることではないの?」
シロの答えに、俺は首を振った。理屈ではなく感情で、俺は応じていた。
自己嫌悪と自暴自棄のうねりに、頭の中がぐらぐらと歪む。
それでも俺は、誰かを苦しめたいわけじゃな。
「世界をこのままにしていたら、ユキトは俺のせいで氏に続けるし、司書さんは記憶に苦しみ続ける。
それは俺のせいなんだ。俺のせいでユキトは氏んで、世界は巻き戻って、司書さんは苦しんでるんだ。
そんなのは、明らかに間違ったことなんだ。起きちゃいけないことなんだ」
「誰かのエゴや勘違いや無思慮で誰かが苦しむのが間違ってるっていうなら、
そんなのは、いつでも、どこでも、そこらじゅうで起きてることでしょう?
わたしがされたみたいに。わたしがしたみたいに。だったら、"間違い"を起こさないためには、世界を止めてしまうしかないと思う」
「だからって、俺たちの一存で、時間の針を止めてしまうわけにはいかない。
……それに――いや、もう、そんな話はどうでもいいんだ」
俺の言葉に、シロは息を呑んだ。
「俺のせいで二人が苦しみ続けるなんて、そんなの、俺が嫌なんだ」
38: 2014/03/31(月) 03:28:11 ID:sFDdS3kY
シロは、押し黙ってしまった。
陽炎にくすんだ街並みが、他人事のように俺たちの声を吸い込み続けている。
「……ごめんな」
俺の声に、シロは無表情で応じた。
「どうして、謝るの?」
「ユキトの氏に、きみが後ろめたさを感じているなら、それは俺のせいだ」
「わたしに言わせれば、それは、反対だよ」
シロは、深い溜め息をついた。
「わたしはいつも、はる兄にそんな思いばかりさせてきたような気がする」
それから俺たちの間に、柔らかな沈黙が下りた。
何かを言いたかったけれど、何を言えばいいのか、分からなかった。
39: 2014/03/31(月) 03:28:50 ID:sFDdS3kY
「ねえ、結局わたしは、何がしたかったのかな?」
シロは、ばかばかしそうな声音で、そう自問した。
「わたしたちをあんな目に遭わせた世界が許せなかった。
だから、わたしは世界を変えようって思った。
でも、気が付いたら、わたしが他の人を、似たような目に遭わせてたんだよ。
……どうして、こんなことになっちゃったんだろう」
「……」
「……ぜんぶ、なかったことにできたらいいのに」
俺はなにも言えなかった。何も言う資格がないような気がした。
40: 2014/03/31(月) 03:29:37 ID:sFDdS3kY
「……もうそろそろ、時間だよ、はる兄」
「時間?」
訊きかえした声には答えをよこさず、シロはうわごとのように言葉を続けた。
「はる兄、わたしね、たぶん……」
再び、視界を、白い光が覆う。
「たぶん、だけど、たぶんなんだけど、わたし――はる兄のこと、好きだったんだよ」
景色が白く染まる。耳鳴りのような音、眩暈のようなぐらつき。
俺は、彼女の名前すら、思い出せなかった。
「さよなら」と彼女は言った。
41: 2014/03/31(月) 03:30:11 ID:sFDdS3kY
引用: こんな日が続けばいいのに.
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