65: 2012/11/11(日) 01:48:46.83 ID:8wZOGikko

 息が白い。

 暖房もつけていない部室なら、当然だろうと笑う。寒さのせいで、自然と頬が引き攣っていた。

 バケツは、取っ手からも冷たさが伝わってくる。

 きっと、手を付けたら本当に寒いのだろう。ほら、案の定。

 体が芯から震えるのを堪えつつ、雑巾を絞る。

 きっと、姉なら耐えられないだろうと考えながら、何度も固く、雑巾に捻りを入れる。


 毎週木曜日。

 それが、松実玄の掃除当番日だった。

 まず、ロッカーや教卓、タンスの上を拭く。水に沈めた雑巾が泡を出した。

 凍えた水と、濡れないように捲った袖から伝わる寒気が玄の体を震わせる。

 悴む手を吐息で温めながら、雑巾を這わせる。

 一人でこうしていると、色々な思いが浮かんできた。


 友人から言われた。一体いつまでそうしているのだ、と。

 半ば呆れられているようだった。

 赤土晴絵が去って、新子憧は分かれ、原村和は転校し、高鴨穏乃とも顔を合わせない。

 最後に和と会ったのが去年の三月。穏乃とは合えずじまい。憧は遠くから眺めただけ。

 和は向こうでも元気にやっているだろうか。穏乃はきっと言うまでもなく元気に溢れている。憧は楽しそうだったので何より。

 息を一つ。窓ガラスを曇らせる。

 こうして人は離れ離れになっていくのだろう。情報化の時代だと言っても、縁というのはきっと昔から変わりないのだと。

咲-Saki- 27巻 (デジタル版ヤングガンガンコミックス)
61: 2012/11/11(日) 01:45:43.20 ID:8wZOGikko
ジャンルは特になし。玄について

66: 2012/11/11(日) 01:49:51.56 ID:8wZOGikko

 静かな部屋に、ガラスを拭く音だけが響く。

 皆の前では、きっといつかまた会えると。そう笑った。

 だが、あれからさらに時間が経つと、そんな気持ちが薄れてくるのもまた事実だ。

 それでも、この習慣は止めない。止める気はなかった。

 まだ、麻雀教室があった頃。皆で話し合って決めた部室の掃除当番。

 そう広い部屋ではないが、麻雀教室に通う人数もまた、あまり多いとは言えない。

 正確に言うなら、教室に通って掃除ができる程度の年齢のもの、であるが。

 それでも皆で決めた。自分たちが使っている場所なのだから、ちゃんと整えようと。

 自分に出来るのかと不安がる子もいたし、掃除という事自体に若干難色を示す子もいた。

 そんな中、玄は言ったのだ。「おまかせあれ」――と。


 自分も頑張って整える。綺麗に掃除する。

 丁度一週間の中間の日、その週の始まりまでの整理とその週の終わりに向けた整頓を確りとこなすと。

 だから皆も一緒に頑張ろうと、そう言ったのだ。

 それから今まで、ずっと続けている。

 誰が来ても、落ち着いた気持ちで麻雀が打てるように。綺麗な場所で楽しめるように、整えている。


 玄自身、頭の片隅では自覚していた。

 ああは言っても――常識的に考えるなら――自分たちが巡り合う事など、ほとんどあり得ないだろうと。

 いくら鷹揚に笑っても、希望があるのだと嘯いても、心のどこかでは分かっているのだ。

 きっともう集まらないと。そんな暗くて、寂しい考えが脳を過るのだ。


 楽しい思い出と割り切って、もう諦めてもいいんじゃないか。

 結局あれから一年経っても、誰とも会えず仕舞いではないか。

 そんな囁きすら生まれた。
 尤もだと思う。普通ならそうなのだ。皆離れていく。きっと人生と言うのはそういうものであるから。

67: 2012/11/11(日) 01:51:15.72 ID:8wZOGikko

 でも、だけれども――と手を動かす。

 自分さえそのままなら。麻雀教室が清潔でいつでも皆が返ってこれるようになっているのなら。

 いつかまた誰かが返ってくるのではないかと。そう思ってならないのだ。

 それともこれはただの意地なのかもしれない。

 もっと正しくいうなら、願掛けだろう。お百度参りとか、そんなように。まだ百度には及ばないが。

 初めのうちは、百も必要ないと思っていた。

 次にもしかしたら百を超えるかと思い始めた。

 今では、百回を過ぎても不可能ではないかと、そう思っている。

 でもひょっとしたら――とも考えずにいられない。


 もしかしたら何かの拍子で。

 丁度百回目に、全員が会えるかもしれない。

 そうなったらいいと思う。無理だと思っても、期待はしている。望んでいた。現実的に不可能でも、そんな都合がいい奇跡を。

 窓ふきが終わり、麻雀牌を手に取る。

 きっとこの赤ドラみたいに。いつか皆と会える。また集まってきてくれる。


 そして百回目。そんな魔法じみた奇跡なんてなかった。所詮幻想は、幻想だったのだ。

 その日は、布団の中で声を押し頃して泣いた。

 そんなつもりはなかったのだが、夜ふと目を覚ますと、寂しさで体が震えて涙が零れたのだ。

 自分でも分からなかった。ただ、寂しかった。寂しくて、胸が痛くて、堪らなかった。

 肘を抱えて、枕に顔を埋めて、啜り泣いた。


 その時、やめようかとも考えた。やはり、無理なのではないかと。

 それでも結局――やめなかった。

 きっと次の週には。おそらくこの次なら。また来週だったら。もしかしたら、今度こそは……。

 そんな風に、細々とした希望に縋って、掃除を続けた。

 そして夏――松実玄の願いは届いた。

 今、彼女は全国の舞台に居た。恩師がかつて通り、そこで止まらざるを得なかったベスト8。勝てばベスト4。

68: 2012/11/11(日) 01:52:02.64 ID:8wZOGikko


 一度きりのチャンス。このメンバーで臨める最後の大会。

 初戦では、まるで手も足も出なかった千里山。そしてそれよりも強く、最強と名高い白糸台。

 敵は強い。特訓はしたが、勝てるかどうかも分からない。

 だが、自分が挫けてはならないのだ。

 これまで――インターハイまで――の道筋と、これからに向けて自分が整えなくてはならない。皆が活躍できる場を。

 故に松実玄は、万感の思いを込めて、こう言うのだ。


「おまかせあれ!」


 なお、結果についてはお察し。

                    ――了

引用: 咲SS総合スレ